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光秀の最期

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 6日(木)04時26分7秒
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  そういえば光秀の最期を具体的に描いているのは『豊鑑』だけだったなあ、と思って、最近になってまた『豊鑑』をぱらぱらとめくって見てみた。

『豊鑑』には光秀の最期がけっこう詳しく描かれている。月明かりの下、山崎の合戦で敗れて数騎の兵だけを連れて小栗栖を落ちていく途中、ヤブから突き出された土民の槍に腹部を突きさされてしまう。

しばらくはそのまま何事もなかったかのように馬上進んで行くが、数百m行って、馬から転げ落ちてしまう。

「槍に刺されたが、その場で騒ぐと敵が勢いづくと思って、ここまでこらえていた。しかし、これが限界だ。ここで死ぬので首を討て」と家臣に命じて息絶える・・・・って、こんな感じだったと思う。

『豊鑑』を書いたのは竹中重門である。重門といえば、竹中半兵衛の息子であり、豊臣政権に直接参加していた当事者である。

同時代を生きた人間が書き残している記録であるから、その内容は信憑性が高いものと思うのだが、あまり史料としては使われていない。

それは『豊鑑』の文体故であろう。『豊鑑』は、その名称からも分かるように非常に文学的な作品である。重門は文章を書くのが上手な人間であったのだろう。読みものとして達筆な内容になっている。

この「書き方が小説的」という点で、あまり信憑性を置かれていないのであろう。『信長公記』が史料としてよく引用されているのは、いかにも記録的な、つまり文学的でない文体であったからだと思う。しかし、現場の声を直接聞く機会のあった人物の描き残したものについては、無視するべきではないと思っている。

『豊鑑』が描かれたのは、重門の晩年であったから当てにならない、という人もいる。しかし『信長公記』だって太田牛一が晩年になって書いたものだから、同じである。

また、「本能寺の変当時、重門はまだ子供(10歳くらい)だったから、子供のころの記憶は当てにならない」という人もいる。

そんなことはない。だって、私は子供の頃に見た『国盗り物語』を現在でもかなり鮮明に覚えている。ましてや本能寺の変のような大事件であったなら、その当時見聞したことを大人になってもよく覚えているのではないだろうか。

光秀の最期を描いた小説やドラマは、だいたい『豊鑑』の記述を基にしていて、私も光秀は小栗栖で土民に殺されたものとずっと思っていた。

最近になって、当時の公家の日記から「光秀は醍醐で土民に殺された」という説の方が主流であるということを知った。

小栗栖じゃなくて、醍醐が光秀の最期の地だったのか! 『豊鑑』に書いてあったことは間違いだったのか・・・・。

そこでgooglemapで醍醐と小栗栖の位置関係を調べてみたら・・・近いじゃないの。その距離の差は数百mにすぎない。

これって、結局同じ場所のことを言っているんじゃないの。地名としては小栗栖よりも醍醐の方がメジャーであるから、公家の耳には「醍醐」として伝わったのだと思う。

ということで、今も私は『豊鑑』の記述通り、光秀は小栗栖で土民に殺されたという記述を信じているのである。

ところで、この『豊鑑』、現在ではネットで無料で本文を読むことができる。昔は掲載している書物を手に入れるのが大変だったものなのだが、便利な時代になったものである。

ちなみに私の手元にある『豊鑑』は昭和初期に刊行された校訂日本文学大系に収録されているものである。やっぱり文学として扱われているんだなあ。
 
 
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