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本能寺5

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月23日(木)04時10分31秒
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  本能寺の変について昔から疑問に思っていることがもう1つある。

変の原因は今まで述べてきたように、追い詰められていた光秀の心理そのものにあると考えている。

だが、その時、信長が非常に手薄な状態で本能寺にあり、周囲に軍勢を集結している織田家の軍団長が自分だけであった、という状況があってこそ、実際に実行に移したのだと思う。

「今なら、確実に信長を討つことができる」という状況が精神的に追い詰められていた光秀の背中を押したというのが決定的な理由であり、それが困難な状況であったなら、光秀は変を起こさなかった可能性が高いと思う。そういう意味でも本能寺の変は突発的な出来事であったはずである。

光秀以外の軍団長がすべて遠隔地に出払っていた、というのは昔からよく言われていることである。

秀吉は中国地方で毛利と交戦中であり、すぐに戻れるはずがない。

柴田勝家は北陸で上杉と交戦中で、やはりすぐに戻れる状況にない。

滝川一益は関東地方で北条氏と対峙しており、都に戻るには非常に時間がかかるであろう。

徳川家康はわずかな供をつれて安土で信長に接待されており、すぐに軍勢を動かすことはできない。

織田信孝と丹羽長秀は四国征伐のため堺で兵を集結中であった。

うん? 兵を集結中? 軍勢、いるじゃん。

つまり、変の時に光秀以外に織田の軍勢が近くにいなかった、というこれまでの説明は間違っているのではないか。

信孝はいったい何をしていたのであろう。(丹羽長秀は最近の研究では四国征伐の司令官にはなっていなかったということになっているようだ)

織田信孝に関しては、四国征伐のために1万程の兵を集めており、しかも四国に渡海する直前であり、堺にいたのであるから、明智に匹敵する兵を持ちながらも、変の後、何もしなかったことになる。

直接、光秀と合戦する勇気はなかったにしても、軍勢を対峙して光秀をけん制することくらいできたのではないだろうか。堺と都とは半日もあれば移動できる距離である。戦国の武将であれば、自分の軍勢を有効に使う手立てがあったはずである。

このことも、子供のころから疑問に思っていた。

最近になって知ったことなのだが、ルイス・フロイスの記録によると、変を知った後、信孝の兵は逃げ散ってしまったのだという。

まあ、逃げ散ってしまうようでは、光秀と対峙することはとうていできないであろう。それにして情けない。信孝には武将としての器量は備わっていなかったのであろうか。

それにもまして、光秀は、堺に織田信孝の兵1万がいる、ということは変を起こす際に脅威として感じていなかったのであろうか。

変の後、信孝は何をやっていたのか、それがどうしても理解できなかったのであった。
 
 
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