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本能寺3

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月20日(月)05時23分51秒
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  麒麟がくる、いよいよ第1話が放送された。まずまずの発進であったと思うが、主君の息子とため口をきいているのはちょっと疑問だった。あの息子と親しいということは、道三側ではなく、義龍側に立った描き方をするのかもしれないなあ。

齋藤義龍が父の道三を討つのは、自分が父から虐げられていたからだと思う。光秀が信長を討つのも似たような理由であるから、その伏線となるような描き方をするのかもしれないと思った。

さて、本能寺の変であるが、光秀の動機は1つだけのものではなく、積み重なった「この人にはもう付いていけない」という深刻な思いからであったのではないかと思う。

『国盗り物語』では、光秀が最初に虐げられるのは、延暦寺焼き討ちに反対する辺りからだったと記憶している。

人々の信仰の対象である比叡山を焼き討ちしようとする信長を光秀は必死に諫めるのであるが、「あんな破戒三昧の奴らは坊主などではない」「古き体質を打ち破ることこそこの信長の使命、そのためには神も死ね」などと言い、それでも反対する光秀は、信長に頭を掴まれて、地面に転がされてしまう。

まあ、実際に、転がされたかどうかはともかくとして、信長が尋常ではなく、自分の意見は通らないということは光秀も感じたことであろう。

浅井氏と近江で対峙している時期に、秀吉と2人で、唐崎の松を復興させようとして、浅井勢に攻撃されてしまい、信長に叱責されるというエピソードもあった。

それをとがめる信長の使者に対して、ただひたすらに謝り続ける秀吉とは対照的に、唐崎の松の由来をもっともらしく伝える光秀。それを聞いた信長は怒りを覚える。光秀の力量を買いながらも、自分に対して口答えをする態度が信長には許せない、という描き方であった。

足利義昭との間に立って苦しむ光秀。しかし、光秀は将軍義昭ではなく、信長の指示を優先する。その際も複雑な思いがあったであろう。

浅井・朝倉を滅ぼした後の正月の宴で、信長は家臣たちに「あの者たちから取り上げた盃で、酒を飲め」という。

その盃は、浅井長政・久政・朝倉義景の頭蓋骨の頭頂部を削って作った盃であった。

気味悪く感じながらも、それらの盃で酒を飲む他の家臣とは対照的に「かつての主君の盃で飲むことはできません」と拒む信長。信長は光秀の頭を押さえつけて、

「飲め、この盃がお前に何をしてくれた。お前を取り立ててやったのはこの俺だ」と盃を強制する。

もっともこの話は『国盗り物語』の創作である。『信長公記』には、正月の宴で、家臣たちが退出していった後、親しい者たちだけに、薄だみにした3人の髑髏を、酒の肴として披露したということになっている。もっとも、それでも不気味なことであるには違いないが。その場に実際に光秀がいたのかは分からない。

光秀の(さらには他の家臣たちも)心が震え上がったのは、佐久間信盛・林通勝の2人が追放となったということである。このことにより、ノルマを果たせない家臣は容赦なく追放されるということを家臣たちは、はっきりと認識することになる。

その時の家臣たちの会話で「昔謀反を起こしたということでは、林通勝も、柴田勝家も変わらない。柴田殿がおとがめなく、林殿だけが追放されたというのは、柴田殿は役に立っているが、林殿は役に立たなくなっているからだ」ということが話題になっていた。これは実際にそうであったろう。

また、「自分たちはいつまでも信長の過大なノルマでヒーヒー言わされて働かせられ続けた挙句、使えなくなったら、簡単に捨てられてしまうに違いない」と家臣たちは自覚するようになった。「おそらく生き残るのは信長の4男を後継ぎにしている秀吉だけではないのか」とも。

その秀吉は「自分は国内に所領を望まない。朝鮮をもらって明に攻め込む」と信長に言って、称賛されていた。信長に取り入ることの上手な秀吉と、真面目でうまく取り入ることのできない光秀とが対照的に描かれていた。

武田家滅亡後の恵林寺で、「我々も苦労した」という光秀に対して「お前が何の苦労をした!」と怒って、欄干に頭を打ち付ける信長。『国盗り物語』では、初めて光秀が「殺してやる」と殺意を抱いたのはこの時のことであったと描かれていた。

この信長の行為はあまりにも理不尽であり、光秀が根に持つのは当然のことである。理不尽な言いがかりをつけて叱咤する上司であるというのがよく描かれていた。

この事件はいくつかの記録に出てくることであるが、事実であったかどうかは分からない。事実であったとしたら、『国盗り物語』の通りに、光秀が殺意を抱いたとしても仕方のないところであろう。

舞台が恵林寺であったかどうかは分からないが、光秀が信長に打擲されたという話はルイスフロイスの記録にも出てきており、そういうことはあったのであろう。

そして、光秀が家康の饗応役を解かれて中国地方への出陣を命じられた後、ある使者が光秀のところを訪れる。その使者が告げた内容は、

「明智殿に出雲・石見の2か国を与える。しかしながら、現在の所領の丹波・近江の2か国は召し上げる」というものであった。これが、光秀の謀反を決定づけることになる。

「こんなことされたら謀反するしかないよなあ」と子供の私も思ったものだが、この話は『明智軍記』にしかなく、まったくの創作であると思う。いくら信長でもこれはあまりにも理不尽、やりすぎである。

しかし、いきなり中国への出陣を命じる信長に、光秀が「あの男の下にいる限り、背中に火を付けられて走り回らせられ続けるに違いない」と思ったことはありうることであると思う。信長の過剰なノルマに光秀は精神的に耐えられなくなっていたのである。

その後の連歌の会やおみくじでは、謀反を否定されるような状況が発生してくるが、光秀はもう「やるしかない」という気持ちになってしまっている。思い込み始めたら、自分を追い込むしかなくなっていくのである。

そして、今なら本能寺が手薄であり、絶好の機会であると判断する・・・・。

もっとあったのかもしれないが、そのように光秀が追い込まれていくさまが、延々と描かれていたので、「光秀に反乱を起こされても仕方がないなあ」と思ってしまったものである。

信長は信長で、光秀の能力を買っており、「あいつならやってくれるよ」などと気楽に濃姫に語ったりしているのだが、ノルマに苦しんでいる光秀の気持ちなどはまったく理解していないのであった。

そんなことで、たまたま手薄であった本能寺を光秀は襲撃してしまったのであった。

以上、大河ドラマ『国盗り物語』の内容を中心に光秀と信長の関係を見ていったが、もちろん、こうしたことがすべて事実であったかどうかは分からない。ただ、「使えない家臣を放逐した」といったことは事実であり、信長が他の大名とは違い、家臣に過大なノルマを与えて酷使していたことは間違いない。そして、信長はいくらパワハラをしても逆らうことのできない怖い上司だったはずである。

そうした信長の仕打ちに対して、耐えきれなくなってしまったことが、本能寺の変の究極的な原因であったと思う。

原因は1つ2つのものではなく、積み重なった経験値による「もう耐えられない」「信長を殺さない限り自分は生きていけない」とまで思い込むまでに至ったことによるものだったと思う。

突き詰めていってしまえば、本能寺の変の原因は、信長自身のあり方にあったということなのではないだろうか。

 
 
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