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稲村城現地学習

 投稿者:安房国  投稿日:2018年12月12日(水)18時43分2秒
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  お久ぶりです。安房前期里見氏の稲村城現地学習会に参加してきました。天候不良のため残念ながら午後からの現地見学はなく午前の座学だけでした。
講師の岡田先生に発掘調査で主郭に建築物の痕跡はなかったのか質問しました。礎石がひとつ見つかっただけで、それ以外に建築物の痕跡はなかったそうです。しかし、主郭の一部しか発掘調査していないので明確に建築物があったか、なかったかは断言できないそうです。あと、岩盤掘削の登城路、東西の水往来ですが、余湖さんの見立て通り、築城時代のものではない可能性が大きいそうです。理由はここから攻めてきた敵に対する防御施設がないこととが一つ。もう一つは、東水往来を登城する時、右側に広がる段々畑のような腰曲輪の一部が、この登城路の左側に同じ面で続いていることが確認されたからだそうです。個人的には余湖さんの言われているように石垣城になっていることが同時代ではない一番わかりやすい証拠と思いますが。ただ、この東西の水往来の入り口部分にそれぞれ井戸があり、そこの井戸から主郭に水を運んでいたという伝承があり、水往来の由来になったとか。
初代里見義実の安房入部についても、結城合戦に敗れての落ち武者伝説は否定していました。足利成氏の命により安房の上杉勢を駆逐するため計画的なものであったとのこと。入部時期や場所についても、独自に考えがあるようでしたが、まだ確信がもてないということで明確にはおっしゃりませんでした。
最後に鎌倉大草紙にでてくる「十村の城」ですが、「稲村院」とかいて「とうそんいん」と読むお寺が過去にこの地域にあったようです。ですから、「十村」は「稲村」を音読みしたようです。個人的にはこの「稲」と言われるこの地域は「とう」里見氏以前にはと呼ばれていたのではないかと考えています。里見氏が来てから「いな」「いなむら」と呼ばれることが多くなったのではないかと。理由は鎌倉執権北条氏を滅ぼした里見氏の祖である新田義貞に関係してくるのではないでしょうか。新田と言えば稲村ケ崎・・・その稲村(いなむら)の読みが関わっているのかなと思いました。
長くなり失礼しました。12月22日、是非行きたかったのですが勤務の都合で残念ながらいけません。これからもHP参考にさせていただきます。では!
 
 
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