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土岐頼芸

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月21日(金)04時37分52秒
返信・引用 編集済
  土岐頼芸は、『国盗り物語』では「よりよし」と呼ばれていたが、その後は「よりあき」と呼ばれるようになり、近年では、どこかの過去帳の書き込みにより「よりのり」と呼ばれるようになってきている。

土岐頼芸を演じていたのは金田龍之介であった。金田龍之介といえば、後には、ギャングの親分や悪徳政治家といった、悪の親玉のような役を演じるイメージの人物であるが、土岐頼芸に関しては、お人好しでだまされやすく、純真なおぼっちゃまといったイメージであった。

名門でありながら騙されやすい・・・まさに齋藤道三が取り入るのにふさわしい人物として描かれていた。

彼には深芳野という愛妾がいた。それが可憐で可愛らしく、主君の愛妾でありながら何とか奪いたいと思った道三(当時は勘九郎だったかな)は、虎の絵の描いた瞳に槍の先を通したら深芳野様をいただきたいという約束をして、それを成し遂げて深芳野を奪い取ってしまう。

そのシーンは子供心にもしっかり刻み付けられていた。勘九郎はすごいやつだ、と単純に思っていたものである。

しかし、今となって思うと、そんなちょっとした約束で、愛妾を家臣に奪われてしまった頼芸は、どんな思いをしていたのだろうなどと考えてしまうのである。

本当に深芳野を愛していたのならば、そう簡単に、深芳野を勘九郎にあげてしまえるものであろうか。他に何の代替品を差し出したとしても、拒否するのではなかろうか。

それでも約束を守って愛妾を差し出してしまうほど、頼芸はお人好しな人物として描かれていたということなのだろうか。

しかもその時、深芳野は頼芸の子供を妊娠していたのである。

でも、結局、その後の深芳野は勘九郎のことを深く愛するようになるのであるから、女心っていうのはよく分からないものだなあ、と子供心に感じていたのを覚えている。

そして勘九郎を愛していながらも、正室にはしてもらえず、正室には明智家から、那奈姫がもらわれてくるのである。

深芳野を演じていたのは若き日の三田佳子であった。今となってはすっかりおばあちゃん俳優になってしまった三田佳子であり、話題といえば子供の不祥事ばかりがクローズアップされているが、当時は本当にきれいで、ちょっとしたことで手折れてしまいそうな可憐な花のような存在であった。

齋藤義龍に、「実は道三の子ではない」と告げるシーンなど、おびえながら話す場面が印象に残っている。「あー、それ言っちゃだめだ」と内心でじりじりしながら見ていた。結局、それがもとで道三は殺されてしまうことになるのである。

そんな感じで、土岐頼芸といえば、とにかくお人好しでだまされやすいやつ、という印象が決定付けられてしまったのだが、実際の頼芸はどんな人物だったのであろうか。やはりいい家のおぼっちゃんらしく、あんなに人の好い人物だったのであろうか。

いやいや、何といっても戦国時代に生きた人物である。実際にはもっとしたたかな人物だったのではないだろうか、などとあれこれ考えこんでしまったりするのである。

真実の土岐頼芸像は、霧の中、といった感じである。

 
 

武田信玄

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月20日(木)04時05分41秒
返信・引用 編集済
  武田信玄はよく知らないが大物俳優が演じていたと思う。もっとも、信玄が登場したのは三方ヶ原の合戦シーンと、駒場の陣で病死するシーンの2回だけだったから、登場したのはほんのわずかなことであった。

それでも、その最期のシーンは印象に残っている。「わしにあと3年の寿命があれば・・・」といって息絶える信玄はいかにも無念そのものであった。

信玄の上洛は織田家にとって非常事態であり、いったいどうなるのかと、ハラハラしながら見ていたのをよく覚えている。

だから、武田軍の動きが停まったことを知って「信玄め、死んだな」と信長がつぶやくシーンを見て、ほっと安堵の思いがしたものだ。

信玄の最後のシーンで、若武者が映り、「父上!」と叫ぶシーンがあった。そこでその若者に「武田勝頼」という字幕が出た。

その瞬間、祖父が、「こいつがダメなやつだから、武田は滅びるんだ」とつぶやいた。

子供の頃の刷り込みというのは、いつまでも精神を支配してしまうものだ。武田勝頼という人がどんな人間であったか全く知らなかったというのに、その瞬間、私の心には「武田勝頼はとてもダメな人間」という印象だけが刷り込まれてしまったのである。

だから、大人になってからも、「武田勝頼はダメな人間」というイメージが払しょくされなくなってしまっていた。

今では、必ずしもそうは思っていないのだが、子供に知識を刷り込む際は、あまり主観的になってはいけないものかな、と思っていたりする。
 

足利義昭

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月19日(水)04時06分5秒
返信・引用 編集済
  足利義昭を演じていたのは伊丹十三であった。これまた、印象的な人物であった。

伊丹十三といえば、その後に映画監督として、『タンポポ』や『マルサの女』シリーズなど数々のヒット作を生み出すことになる人物であるが、この頃は個性的な俳優の1人であった。

『国盗り物語』から感じた足利義昭の印象は、小人物で陰謀好き、信長を従えようとしながら実際は常に信長におびえているという人間像であった。

実際の足利義昭がその通りの人物であったかどうかは知らないが、おそらくそんな感じであったろうというイメージを定着させるのに十分な人物像として描かれていた。

光秀は、この義昭に翻弄されることとなる。『国盗り物語』では、光秀と細川藤孝は、その生涯の多くを足利義昭を将軍として擁立することに費やしていたように描かれていた。

義昭が実際に将軍となった際には、「大願成就した」と喜んでいた2人の姿が心に残っている。光秀曰く「義昭様は、わしが奔走し、わしが擁立した、わしの手作りの将軍だ」

しかし、将軍になるや否や、義昭は信長のことを鬱陶しく思い、ひそかに信長に反旗を翻そうとし始める。

朝倉、武田、毛利、石山本願寺、比叡山延暦寺といった勢力を手玉に取り、信長包囲網を敷き、信長を倒そうとする。

義昭が陰謀を企めば企むほど、光秀は、義昭と信長とのはざまに立たされて苦悩するのであった。

そしてその様子を見て苦々しく思う信長。信長からしてみれば「お前をここまで取り立ててやったのは自分なのに、いつまで義昭の肩を持つのだ」と思っていたことであろう。

武田信玄の上洛を前にして「武田は強い。信長は滅びるぞ。」と嬉々として語る義昭を見て、光秀は絶望的な気分になってしまうのであった。

結局武田信玄は上洛途上で病死してしまい、早まって挙兵した義昭は、信長に捕らえられて追放されてしまう。子供心にも「この人は殺されないだけ、ありがたく思うべきだよなあ」と思うほどに、信長にとっては迷惑な存在であった。

その後、最終回近くなって、足利義昭が光秀に書状を遣わすシーンが描かれていた。寝ている時に「義昭様からの書状が届きました」という家臣からの報告を受けたために、それが夢の中の出来事のように思っていたというのに、実際に家臣が書状を受け取ってしまったという事実を知って青ざめる光秀。

本能寺の変の原因の1つとして、足利義昭陰謀説というのもあるが、『国盗り物語』の時点ですでに、その要素も描かれていたのであった。
 

足利義輝

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月18日(火)04時25分19秒
返信・引用 編集済
  足利義輝はとてもカッコイイ人物であったと印象に残っている。

だってだって、演じていたのが竹脇無我だったんだもん! 竹脇無我といえば、『大岡越前』で、小石川療養所の医師伊織の役を演じていて、お茶の間にはよく知られていた人である。

伊織の姿や言動を見て、子供心にも「素敵な男性だなあ」と感じていたことをよく覚えている。

足利義輝は朽木谷での隠棲中に明智光秀と出会うシーンと最期のシーン以外を除いてほとんど登場することはなかったのだが、最期のシーンは印象的であった。

松永弾正の兵に御所を囲まれた義輝は辞世の歌を詠む。

「五月雨は露か涙かほととぎす わが名を上げよ雲の上まで」

歌としてはまったく上手なものではないが、この歌にかける心意気は、歌の巧拙などを超越した次元のものであると思う。

「藤孝めに見せれば、手直しするか」とつぶやく義輝。

その後、足利家伝家の宝刀を並べて、敵を斬って斬って斬りまくって、最後に討ち死にしてしまう義輝。こんなに自ら剣を振るって戦った将軍など他にはいないであろう。

義輝が死ぬシーンそのものは描かれていなかったので、「将軍は何とか助かったのでは」と思いこんでいた。というか「何とか助かってほしい」と思っていた。

しかし、御所の焼け跡で光秀と再会した藤孝が「将軍がお亡くなりになった」というのを聞いて、がっかりしたものであった。

その後、光秀と藤孝の2人は、義昭を救出すべく、協力することになるのである。
 

Re: 細川藤孝

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月18日(火)04時17分8秒
返信・引用
  > No.6543[元記事へ]

D山岳会 Mさんへのお返事です。

細川藤孝は光秀の親友という描き方をされていましたね。光秀の良き理解者でもありました。

それなのに、本能寺の変の後、髪を切ってにわか出家となって「明智殿に味方はできない」と言った場面が印象に残っています。

でも、そんな藤孝の対応に対して、そんなに嫌な気分にはなりませんでした。自分の家を守るための冷静な判断だったのかなと感じた所以だったと思います。

親友としての光秀に加担したい気持ちはあるが、主君殺しをした光秀に味方をすることはできない・・・・そう思って苦悩する藤孝の様子がよく描かれていたと思うのです。


戦国自衛隊、懐かしいですね。子供の頃、マンガになっていて、マンガで読んだ記憶があります。そうでしたね、伊庭が最後に「自分が信長だったのか」とつぶやくシーンは私も印象に残っています。

その後、映画化もされましたが、映画の方は、自衛隊の戦車やヘリをレンタルするのに資金がかかりすぎたせいか、映像的にはあまりぱっとしない作品になったと感じました。

ただ、デビューしたての薬師丸ひろ子が若武者の役で出ていたことだけが印象に残っています。
 

Re: 小室陣屋障子堀説明会

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月18日(火)04時10分13秒
返信・引用
  > No.6542[元記事へ]

あんけんさんへのお返事です。

そうですか。史跡化に反対する看板はなくなっていましたか。それはよかったです。

史跡は史跡であっても私有地になっていることが多いので、人によっては史跡化そのものを好ましく思わない方がいらっしゃいます。

地元の方のご理解を得られるかどうかということは、とても大きな問題であると思っています。

伊奈陣屋の件は、一定のご理解を得られたのだと想像します。伊奈陣屋については史跡としてもかなり重要なものであると思いますので、地元が史跡化に反対することがなくなったというのは、とても喜ばしいことだと考えています。

 

細川藤孝

 投稿者:D山岳会 M  投稿日:2020年 2月17日(月)16時21分10秒
返信・引用
  余湖さん、こんにちは、いつもお世話になっています。

ついに「細川藤孝」が登場しましたか。待ってました。
数日おきに拝見してましたが、登場しないのかとあきらめかけていました。
高校生の頃「国盗り物語」はなぜか毎回欠かさず見ていました。
他の大河ドラマは、あまり熱心に見た記憶がありませんが。

伊吹吾郎の細川藤孝が突然登場してから、光秀の人生が暗転した様な気がします。
朝廷が嫌いな信長の不興を徐々に買っいった光秀は、いつも怒鳴られていました。
「光秀めえぇ~!!。」

話は「国盗り‥‥」から離れますが、半村良の小説「戦国自衛隊」のラストです。
主人公の伊庭義明を殺すのは、明智光秀ではなく細川藤孝でした。
伊庭三尉はそこで初めて、自分が織田信長だったと気づくのでした。
細川藤孝の登場を不審に思っていた人物は、他にも居たかと納得しました。

 

Re: 小室陣屋障子堀説明会

 投稿者:あんけん  投稿日:2020年 2月17日(月)12時21分27秒
返信・引用 編集済
  > No.6540[元記事へ]

余湖さんへのお返事です。

> それよりも、あの頃には、史跡を整備することそのものに反発するような看板があちこちに立てられていたように記憶していますが、今はどうなっているんでしょうか。
>
> 一般に広く公開されることを願っています。

こんにちは。例の看板ですが以前二の丸の発掘時に既に1ヶ所も見かけませんでした。その後も役場的にも堀底道など整備して見学者が私有地に入らないようにしたり、ウッドチップを敷いて泥を生活道に出さない様にしてます。市民側も今の三成に続けと伊那忠次主人公にした大河ドラマ化希望する運動があったり、漫画・イラスト化して、町50周年記念でお菓子屋ペットボトルの水に絵が入ったりと、もめてた方はもういらっしゃらないのではと思いました。

見学の際は丸山駅から700m程で駐車スペースも有る資料館か町役場で散策路マップを貰ってからの見学がお勧めです。ただ夏場は障子堀跡のブロック表示が下草で見え難いです。

雨で順延になったら駿府城の現地説明会と被ってしまうので決行されて良かったです・・・。
 

細川藤孝

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月17日(月)04時26分6秒
返信・引用 編集済
  昨日、麒麟がくるで、細川藤孝が初登場した。初登場の場面で明智光秀と切り結ぶシーンがあったが、これは『国盗り物語』と同様であった。

『国盗り物語』の場合は、斎藤道三の死後、諸国を放浪している際、朽木谷の神社で、夜、油をなめに来る妖怪がいるという話を聞いて、「世間の評判を得るため」といって、光秀が、それを退治しに赴くというエピソードがあった。

神社に張り込んでいたところ、怪しい影が燈明の油を盗みに来たため、それを噂の妖怪だと思った光秀が切りつけようとする。

しかし、それは妖怪ではなく、人であった。夜、書見をするための油代も賄えなかったため、神社に油を盗みに来ていたのである。

それが将軍側用人であった細川藤孝と明智光秀との初邂逅のシーンであった。

この話は司馬遼太郎が考えたオリジナルのものであったと思うが、なかなか印象的なシーンだったのをよく覚えている。

実際に光秀と藤孝とがどのようにして巡り合ったのかは定かではないのだが、ともに将軍家復活のために運動することになるのだから、その過程で同志として活動するようになっていったのは間違いないのだろう。

『国盗り物語』で細川藤孝を演じていたのは伊吹剛であった。ただの文人というよりは、体格も立派な豪傑的な人物として描かれていた。

その後、朽木谷に隠棲していた将軍義輝を盛り立てるため、光秀の活躍が始まる。無位無官であるため、直接将軍と会うことはかなわないものの、義輝に名前を覚えられ、義輝の名代のような名目を得て、朝倉や織田といった諸家を回って、将軍家復活のための運動をするのである。

その後、義輝は殺害され、その弟の義昭を擁立するために2人はまた協力する。

さらに織田家の庇護を受けてからは、ともに信長に認められていき、足利家と同時に織田家からも所領を得るような立場になって行く。

足利義昭が没落してから、藤孝は、完全に織田家の所属となり、光秀と共に丹波攻略に活躍することとなる。

そんな感じで、藤孝は、常に光秀の親友として描かれていた。若き日の藤孝は光秀と「お互いの子供が大きくなったら結婚させたい」という話をしていたのだが、やがて、信長の命でそれが実現することとなる。

「2人の子供を娶わせよ」という信長の言葉を聞いて喜ぶ2人の姿が印象的であった。「あの頃の約束が、このように実現することになるとは・・・」

その後に、2人の孫として娘が誕生するシーンが描かれた時、家族が「これがガラシア夫人だ」といっていたが、その頃はガラシアのことなどは知らずに「何でこの赤ん坊が、そんな外国名になるのだろう」と不思議に思ったものである。

ちなみに藤孝の息子の忠興を演じていたのは、ミラーマンを演じていた俳優で、子供にもなじみがあった。

本能寺の変を起こした後、光秀は藤孝が味方をしてくれることを期待して使者を送る。それに対して藤孝は、自らの髪を切り落とし「わしは隠居したから味方はできない」と使者に告げる。それを見た忠興も。同じように髪を切り落とし、「味方はしない」と告げるのである。

光秀と最も親しかった藤孝でさえも光秀を見限った・・・・このことは世間の評判となり、ますます光秀は孤立していくのである。この場面が藤孝の登場する最後のシーンであった。

「わしが見限ったことで、光秀殿は世間からも見限られるであろう」といったセリフを言っていたと思う。

しかし、これが正常な感覚を持っている人の反応というものであろう。主君殺しはあまりにも重すぎる行為であり、加担するのは憚られるのが当然であった。

その後、伊吹剛は『水戸黄門』で格さんを演じることになる。それを見た私は、「細川藤孝じゃん」と思ったものである。
 

Re: 小室陣屋障子堀説明会

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月17日(月)04時04分51秒
返信・引用
  > No.6539[元記事へ]

あんけんさんへのお返事です。

説明会があったのですね。この陣屋を訪れたのは、もう20年近くも前のことなので、なんだかとても懐かしいです。

当時から、障子堀の存在は話題になっていました。

それよりも、あの頃には、史跡を整備することそのものに反発するような看板があちこちに立てられていたように記憶していますが、今はどうなっているんでしょうか。

一般に広く公開されることを願っています。
 

小室陣屋障子堀説明会

 投稿者:あんけん  投稿日:2020年 2月16日(日)19時17分36秒
返信・引用
  こんばんは、あんけんです。
今日は雨も降る中、伊奈氏陣屋(小室陣屋)に於いて伊奈町町制施行50周年を記念した散策路整備イベントの中で昭和に掘られた障子堀の続き部分の発掘現地説明が行われました。

余湖様の図で裏門近くの物見台北側の堀切も障子堀と伝わり(画像2枚目)、昨年堀切外縁部で新幹線側から障子堀が回って来て接続してるか調べたところ堀自体が見つからず、今年は図の「子堀」の文字付近でW字型に東へ折れてる事を想定してトレンチが設定されました。(画像1枚目)

結果調査区域では南東に続いてて曲がり角は見つかってません。トレンチの画像は城内側から見ていて、左隣は昭和に調査された障子堀の端で、右方向のどこかで堀は外側(奥側)に折れてると推定されます。堀の幅は4.6mで、北側に続き3.5m間隔で桟が交差してます。桟の上から堀底までは1.4mの深さです。企画的な構造は16世紀末の最も新しい時期の障子堀と推定されますが、遺物が出てないので特定は難しそうです。堀の対岸にはローム層の掘り残しやブロックを突き固めた場所と溝が在り、何らかの構造物(橋?)が想定されます。

堀切付近で見られた浅間山の火山灰が無かったので、1596年までには埋められた可能性が有り、埋めた跡には堀の上と東の沼地に向かって湧き水を排水する溝が在った様です。

散策路整備が進むと同時に案内標識があちこちに設置され(画像3枚目)、イベントには子連れの地元の方も多数参加されるなどとても良い雰囲気でしたし、見易いガイドパンフレットも製作して、頭殿権現社の鎮座する詰めの丸的郭にも解説板が設置され、郷土資料館もすぐ北東の南中学校内に移転して来てて、以前の嫌な感じを体験してしまった方にこそ、是非また行って欲しいと思います。
 

黒田官兵衛

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月11日(火)21時48分45秒
返信・引用 編集済
  官兵衛は江守徹が演じていた。江守徹といえば、現在では大役者であるが、『国盗り物語』の時点ではまだ、それほど有名な役者ではなかったような気がする。しかし、ここでの演技が認められ、2年後『元禄太平記』では主人公ともいうべき大石内蔵助を演じて、文字通り第一線の大俳優となっていく。

官兵衛は最初は小寺官兵衛として登場してきた。織田家と結ぶために、主君の小寺藤兵衛を説得し、織田家に乗り込んできたのである。そして、官兵衛との連絡役になったのが、またしても羽柴秀吉であった。

結局、官兵衛は、そのまま竹中半兵衛と共に、秀吉の相談役となって行く。

ショックだったのは、主君の藤兵衛との関係である。藤兵衛は、プライドが高いだけの人物で、一度は織田家と同盟を結んだものの、信長に頭を下げたくないという個人的な理由だけで、官兵衛を煩わしく思い、殺してしまいたいと考える。

そこで、荒木村重が信長に謀反を起こした際に、「村重の説得に伊丹城に行ってくれ」と官兵衛に頼みつつ、「村重に私からの手紙を託すので、これを渡してくれ」といって自ら書いた手紙を官兵衛に託す。

その手紙を官兵衛は伊丹城で、荒木村重に渡すのだが、それを読んだ村重は愕然とする。

そこには「この男は邪魔になったので、あなたの手で殺害してほしい」と書かれていたのである。

「主君が自らの家臣を、他人に殺させようとするとは・・・」それを読んだ村重はあまりにも哀れになってしまう。そこで、官兵衛を殺すことはせずに、地下牢に幽閉してしまうのである。

この辺りのくだりは『国盗り物語』にはないエピソードであり、おそらく『播磨灘物語』から採ったエピソードだったのではないかと思うが、子供心にも「小寺藤兵衛は卑怯で許せない人物だ」と憤っていたのを覚えている。

結局、官兵衛は九死に一生を得たが、不具者になってしまう。毛利に味方しようとした藤兵衛は没落し、追放されてしまうのだが、それでもかつての主君をいとおしむ官兵衛を見て、「この人はなんてお人よしなんだろう」と思ったものである。

ところで、この翌年に『斬り抜ける』という変わった時代劇で、明智光秀(近藤正臣)と羽柴秀吉(火野正平)が共演していたという話を以前に書いたが、実は江守徹も共演している。

ただし、役者としてではなくナレーターであった。このナレーションを聞いていると、今でも私には官兵衛の声に聞こえてしまうのである。

https://www.youtube.com/watch?v=QxKbQJDqAG0&t=19s

ところで、大人になってから、戦国史料叢書というシリーズを買い集めた時期があった。その中の『太閤史料集』には『川角太閤記』や『天正記』が掲載されていた。その中に秀吉のお伽衆の名前が書き連ねられている個所があったのだが、それを見て、唖然とした。

秀吉のお伽衆には、小寺藤兵衛やら荒木村重やら足利義昭やら、かつての敵対した人物が多く含まれていたのである。

こんな人たちが結局、一堂に会して、秀吉の子飼いになっていたのだなあと思うと、いったい秀吉はどういう気持ちでこんなことをしたんだろかと不思議な思いになったものである。

さて、明日から沖縄出張である。それゆえ、しばらく掲示板の書き込みはお休みです。
 

竹千代

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月11日(火)05時43分11秒
返信・引用 編集済
  先日『麒麟がくる』を見ていたら幼い竹千代が登場してきた。竹千代にはちょっとした思い入れがある。

『国盗り物語』が放送された翌年、『少年徳川家康』というアニメが放送された。山岡荘八が原作のアニメなど、後にも先にもこれだけであるが、おそらく『国盗り物語』によって戦国ブームが起きて、それでこんなアニメが製作されたものであろう。

なにしろ、少年時代を描いたものであるから、合戦のような華々しいシーンはなく、少年竹千代が、しいたげられて辛い思いをするといった、鬱なアニメであった。

母に会いたいけど会えない、といった展開は『一休さん』と通じるものがあった。キャラも『一休さん』そのものであった。

しかし、このアニメのエンディングがとても好きで、つらいことがあった時などによく口ずさんでいた。

youtubeで探したらエンディングの映像はなかったのだが、ソノラマシートの曲を見つけることができた。3:35からがエンディングである。

https://www.youtube.com/watch?v=G3AA1-tUNE0&t=271s

「生まれた時から重荷をしょって、歩いて行くのが男だよ」
「人に頼るな 頼れる人になれと教えた母の愛」

昔は幼児までの死亡率が高く、そのため子供をたくさん産むというのが当たり前だった。そんな中で、兄弟もない一人っ子で、父は早くに死亡、母は離縁させられ、天涯孤独になったうえに、自身は人質として他の大名に預けられてしまう・・・・こんな悲惨な少年時代があるだろうか。

こんな虐げられた青春を送った人物が後には天下を取るのだと思うと、本当に奇跡のような出来事だと思うのである。

思えば、家康の祖父の松平清康は、10代で家督を継ぎ、24歳までに三河を統一するほどのやり手だった。その清康は24歳という若さで戦死してしまう。

残されたのは一人息子の広忠。この広忠も、26歳で家臣に殺害されてしまう。そういえば大河『徳川家康』で広忠を演じていたのは近藤正臣だったなあ。

その広忠のたった一人の子供が竹千代だった。そうした細い糸のような家系をかろうじてつないでいくことによって、後の江戸時代が出現することになるのである。

こうして考えてみると、これは奇跡だったんじゃないか、としか思えないのである。

あの時、織田の館で、人質となっていた幼い子供が後に天下を取るなんて、いったい誰が予想できたであろうか。
 

Re: 油田新城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月10日(月)04時06分17秒
返信・引用
  > No.6535[元記事へ]

k23さんへのお返事です。

やはり先端部が主郭だと考えますか。私もよくよく考え直して、そちらの方がふさわしいのではないかと思いました。

というわけで、ホームページの記述は修正しておきました。

お城巡りをする際には、なるべく現地の方に声をかけるようにした方がよいと思います。基本的に城址のほとんどは私有地となっているので、声を懸けることで、トラブルを未然に防ぐことができるケースがありますので。
 

Re: 油田新城!

 投稿者:k23  投稿日:2020年 2月 9日(日)22時00分45秒
返信・引用
  > No.6533[元記事へ]

余湖さんへのお返事です。

あの縄張り図をあの状態で2時間というのは流石ですね。
近隣の方への声掛けは必要ですし良いものですね。自分は人見知りで苦労します…

初心者が意見するのも気が引けますが、個人的には「3」が本来のⅠ郭に思えます。「1」と「2」は敵迎撃の為の施設と思えます。
「1」の虎口と土橋には引橋があったと思われ土塁も大きく防御力は高いですが、少々台地基部に近すぎ不安に思います。
また「3」の北斜面を直登したのでその急峻さも体験しており「4」の防御遺構が控えめなのも気になる要因です。

それと先の書き込みを訂正しておきます「山林の管理に関するご杞憂は本当に同感です」杞憂ではなく懸念ですね…恥ずかしい限りです。

メールはお言葉に甘えて送らせていただきます。よろしくお願いします。

 

下の投稿の続き

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 9日(日)21時02分29秒
返信・引用 編集済
  下の投稿で、井田因幡守の2つの城との関連を考えてみたのですが、この点についても、意見をお聞かせいただければと思います。

当地域で相横矢のある虎口を有しているのは、坂田城、津辺城、油田新城の3つだけです。このうち、坂田城と津辺城の築城者は井田因幡守であると考えられています。

こうしてみると、相横矢のある虎口を有している大きな郭は台地基部に近く、より大きな2郭、あるいは3郭なんですよね。いずれも主郭は先端部です。そうなると、やはり台地先端部の郭を1郭とすべきなんでしょうか。
 

Re: 油田新城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 9日(日)20時46分10秒
返信・引用 編集済
  > No.6532[元記事へ]

k23さんへのお返事です。

k23さんの情報のおかげで、今まで見落としていた城郭を確認することができました。ありがとうございました。

登城にはあの小屋の右側から入って行くのが一番楽だと思います。私は基本的には人がいそうなところには立ち寄って声をかけてから入ることにしているので、小屋に訪れてみたのですが、まったく誰もいなかったので、そのまま奥に入って行きました。

誰かに声をかけるのは、怪しまれないためということもありますが、それによって有用な情報を得られることもあるからです。ご年配の方なら、だいたい城のことはご存じで、「よく来たね」などと言ってもらえたりします。

遺構はお教えいただいた通りとても素晴らしいもので、それもかなり技巧的な戦国末期の城郭であったと思われます。

ただ、倒木が酷すぎてひどすぎて、途中で泣き出したくなるくらいでした。倒木とヤブで方向感覚を見失ってしまい、途中で方角が分からなくなってしまったりして、何度も彷徨することになりました。

こうして図にしてしまえばコンパクトなものなのですが、思いがけないところに堀や土塁が出現したりして、ちゃんとした図を持っていないと、かなり迷ってしまいそうな城ですね。

あのくらいの規模の城は普通は1時間もかけずに描くことができるのですが、倒木とヤブのため、2時間近くかかって汗だくになってしまいました。

ホームページでは、相横矢のある構造から、永禄から天正期の正木氏の香取侵攻に備えて、井田因幡守が築いたもの、と想定してみました。その時は相横矢のある一番大きな郭が1郭、先端を3郭としたのですが、今になって考えてみると、1郭と3郭とは逆にした方がよいのではないかと迷っていたりします。どっちが主郭だと思いますか?

ところで、もし私の図を持って再訪するのなら、もっとサイズの大きなものをお送りしますので、お知らせください。ホームページに掲載しているものはサイズを小さくしているために、細かい部分が分かりにくくなっていると思います。トップページからメールを送れるようになっていますので、直接メールをお送りください。
 

Re: 油田新城!

 投稿者:k23  投稿日:2020年 2月 9日(日)18時40分27秒
返信・引用
  > No.6525[元記事へ]

余湖さんへのお返事です。

油田新城の縄張り図とリポート拝見しました。詳細な図を作成して頂き嬉しい限りです!
こうして見ると自分の提供した資料はかなり間違っていますね。
特に連続堀切の在る東側斜面では??となってしまい自分の位置も見失う程で余湖さん図を見て納得しました。
いずれにしてもこの様な立派な遺構が公式な資料に無いと言うのは謎ですね…
山林の管理に関するご杞憂は本当に同感です(開発されて消滅するよりは埋もれていたほうがずっと良いですが)

見学ルートですがやはりあの作業小屋脇を通られたのですね。自分は通るのが躊躇われた為、遠回りしてしまいました。

自分も前回から訪問できていないので次は余湖さん図を片手に連続堀切やその他の詳細な遺構を鑑賞してくるつもりです。
ありがとうございました。7000城達成楽しみにしております。
 

余湖図7000城まで・・・

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 9日(日)17時27分29秒
返信・引用 編集済
  余湖図7000城まで、あと10城ちょっとというところまで来た。

記念すべき7000城目の城はもう決めているので、ちょうどそのお城の掲載が7000城目になるように調整したいと考えている。

ちなみに7000城目の城は、昔、鳥瞰図を作成しようとしながらも、あまりの大変さにあきらめてしまっていた城です。私が鳥瞰図の作成をあきらめるというのは、なかなかないケースです。今回は気合を入れて描いてみることにします。

今月中には7000城目を掲載できる予定です。
 

Re: 野手彦兵衛の氏族の家紋

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 9日(日)17時23分58秒
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  > No.6529[元記事へ]

おはなちんさんへのお返事です。

初めまして。私の当該ページの記述は、野手さんからご指摘されたことをそのまま掲載しています。

野手氏は千葉一族なので、日月紋や九曜紋などを使用しているのが一般的です。

> 何故だかうちの親戚だけ「鞠挟みに四つ目」紋です。

私に野手氏のことを教えてくださった方も、「野手彦兵衛の氏族だけは日月紋や九曜紋を使用していないと聞いている」とおっしゃっていますね。

そのご指摘の通りだということが分かりました。それにはいったいどういう原因があったのか、野手彦兵衛は、もともと野手一族ではなく養子として入ったためなのか、あるいは彦兵衛には独特のこだわりがあったのか、主君から拝領したため、別の家紋を使用していたのか・・・等々、考えられるケースはたくさんありますが、その辺りはぜひ、ご子孫としていろいろと調べてみたらいかがでしょうか。
 

野手彦兵衛の氏族の家紋

 投稿者:おはなちん  投稿日:2020年 2月 9日(日)14時28分16秒
返信・引用
  こんにちは、はじめまして。

先祖のことを調べているうちに、ここのHPにたどり着きました。
伝野手代官屋敷(下妻市加養)のところにある、野手彦兵衛の子孫です。

何故だかうちの親戚だけ「鞠挟みに四つ目」紋です。

 

浅井長政

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 9日(日)05時56分30秒
返信・引用 編集済
  『国盗り物語』の登場人物にはかっこいい人が多かったのだが、中でも群を抜いてそのかっこよさが印象に残っている人物の1人が浅井長政であった。

何しろ演じていたのが、杉良太郎である。

杉良太郎といえば、初代助さんであるし、また十文字小弥太であった。(大江戸捜査網を覚えている人、いるかな?)

特に大江戸捜査網の方は、同時期にやっていたような気がするから、まさにヒーローが演じている、といった印象であった。

だから、浅井長政が味方になってくれているというのは、とても頼もしい感じがしたものだ。

それが、途中で朝倉方に寝返ってしまう。それも、父、久政の陰謀によってであった。

越前に攻め込んだ織田軍の背後を突くべく、軍勢を久政が勝手に派遣してしまったことを知った長政は、

「父上、いったいなんてことを!」と問い詰める。
「朝倉は縁者じゃ。我が家は、朝倉家には恩義がある。信長と同盟を結ぶにあたっては、朝倉と争う際には必ず、こちらに相談してほしいと伝えていたではないか。約束を破ったのは信長の方だ」
「ではありますが、父上、世の流れというものを考えていただきたい。いずれ朝倉は没落し、織田の世になりましょう。朝倉に義理立てしていても、浅井の将来のためにはなりませぬ」
「黙れ黙れ! わしは朝倉の味方じゃ」

といったやり取りがあって、長政は、信長と敵対することを決意するのである。ドラマの中では、久政が凡庸な人物であり、長政はそれに振り回されるといった役回りであった。

信長との決戦を決意した長政は、以後は徹底して信長と戦い続ける。最終決戦を迎えるにあたって、長政は、自ら戒名を付け、自らの墓石を建て、自らの葬儀を生前に行うことによって、家臣らに自分の覚悟を示す。

難攻不落を誇った小谷城も、秀吉の攻撃によって落城の時を迎える。久政の籠る京極丸と、長政の籠る本丸との間を分断された小谷城は、やがて火をかけられ落城、長政は自刃する。

小谷城落城の際、お市の方と三人の娘は助け出されたが、一緒にいた万福丸は引き離されて、串刺しになって殺される。ひどいことをしたものである。(もっとも串刺しにするシーンはなく「串刺しにせよ」と命じただけであったが)

浅井滅亡の後、浅井領は秀吉に与えられた。狂喜乱舞する秀吉の姿が印象に残った。その後、秀吉は長浜城を築いて本拠地とするのである。

浅井長政は本来は、先を見通すことのできる人物であり、あのまま信長に仕えていたら、かなりの活躍が期待できる英雄的な人物であった。凡庸な父上に引っ張りまわされたがゆえに、滅亡の道を歩んでしまうことになった。

ということで、浅井長政はかっこいいという印象を抱いていたのだが、後になって歴史の本で浅井長政の肖像画を見た時は愕然とした。こんな蝦蟇蛙みたいなのは長政じゃない!

なお、浅井長政、久政、朝倉義景の3人の頭蓋骨はそのまま漆塗にされ、頭頂部の部分を切り取って盃にして、酒を注ぎ、家臣らに飲ませるシーンがあった。気持ち悪いことをするんだなあと感じた。

そこでも、朝倉義景の頭の盃を飲めない光秀と信長との相克があった。

「光秀、酒を飲め、何故飲まぬのか」
「できませぬ。この盃は、私のかつての主君でござります。主君の盃は飲めませぬ」
「だからこそ、飲めというのだ。この盃が一体お前に何をしてくれた。この信長だからこそ、お前をここまで取り立ててやったのだ。飲め!」

そして、酒を無理やりに飲ませる信長。完全にパワハラだよなあ。

朝倉義景も凡庸な人物として描かれていた。この人物のことはほとんど印象に残っていない。



 

Re: 仇敵・大河ドラマ

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 9日(日)05時33分44秒
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  > No.6526[元記事へ]

ひづめさんへのお返事です。

やはり、そんな感じでしたか。私の家庭と一緒ですね。学校では、青春ドラマの方が話題になっていましたから、自分もそちらの話題に入りたかったものでした。

だから、上杉謙信や原田甲斐のことを、いつも苦々しい思いで見ていたものでした。

ただ、今になって思うと、大河ドラマの方をちゃんと見ていた方がよかったな、って思ったりします。でも、その時はそういう思いになるとは思っていませんでしたから、仕方のないところですね。

「裏番組をぶっとばせ!」は、大河ドラマの裏番組でしたか。この番組名は知っていたものの、見たことはありませんでした。うちでは、大河ドラマか青春シリーズしか見ていなかったですから、「裏番組をぶっとばせ」を見ることはまったくなかったですね。
 

Re: 仇敵・大河ドラマ

 投稿者:ひづめ  投稿日:2020年 2月 8日(土)21時26分6秒
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  > No.6524[元記事へ]

余湖さん

>大河ドラマが終わった瞬間にチャンネルを回してみると、いつもドラマの最後の数分間のみ見ることができた。だから、これらのドラマの最後の方しか覚えていない。

 我が家も父がNHK大河第1作の「花の生涯」から見ていたので、チャンネルを変えるなどとうていできませんでした。子供心には、学校での友達間の話題に着いていけないのは残念でした。それでも、大河が終わってすぐ青春ドラマにチャンネルを変えれば結末の10分くらいは見られました。思えば、今のように「〇〇紀行」がなくてよかったです。青春ドラマの何本かは、後年再放送でかなりフォローできました。コント55号の「裏番組をブッ飛ばせ」はあまり見られませんでした。でも仰るように、今になると、大河があまり保存されていないのは残念ですね。
 

油田新城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 8日(土)19時03分14秒
返信・引用 編集済
  千葉県香取市のお城。

この掲示板で、素晴らしい遺構を持った油田の城があると知って、さっそく訪れてきた。

千葉県の遺跡地図で示されている油田城は、この城の東側の台地であり、そこは「殿城」と呼ばれ、ちゃんと城があったという伝承が残されている。しかし、しょぼい。

その西側の台地にあるこの城は、千葉県の遺跡地図には掲載されていなかったので、これまで知らなかったというわけだ。

ところが実際に訪れてみると、非常に技巧的で素晴らしい城郭であった! こんな城が遺跡地図にも掲載されずに埋もれていたとは・・・。

いやもう、本当に埋もれている。城内もそこに至る道もヤブと倒木だらけで、ここまで訪れる人は現在では皆無に近いであろう。

遺構は想像以上に充実している。相横矢を懸けた虎口。腰曲輪に掘られた連続堀切群。折れを利かせた城塁と横堀。二重堀のような遺構などなど、一見の価値のある城である。

ということで、ざっと描いてみたのだが、何しろヤブで見通しが利かない上に、倒木が多くて城塁をまっすぐ歩けない。だから細部にはあまり自信がない。大体のイメージは合っているとは思うのだが。

掲示板で紹介されていた図は、全然違っていたため、これを見ながら歩いたら、かえって混乱してしまったのであった。

この城は油田の領主の居館であった油田城とはまったく別個のもので、戦国末期に、正木氏の香取侵攻などといった軍事的緊張感の下で、新たに築かれた軍事拠点であったのではないかと考える。そのため油田新城と仮に呼んでおくこととした。

http://mizuki.my.coocan.jp/yogokun/omigawa.htm#aburata2
 

仇敵・大河ドラマ

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 8日(土)05時57分57秒
返信・引用 編集済
  ここでの私の書き込みを見た人は、私が子供の頃から大河ドラマを見ていた早熟な子供だったと思うかもしれない。しかし、それはまったく事情が異なっている。

子供の私にとって、大河ドラマは仇敵ともいうべき存在であった。というのも、以下のような事情による。

大河ドラマが放送されている時間、その裏側では青春ドラマシリーズが放送されていた。

『天と地と』の裏番組は『俺は男だ!』、『樅の木は残った』の裏番組は『飛び出せ!青春』、『春の坂道』の裏番組は『おこれ男だ!』、『新平家物語』の裏番組は『われら!青春』といった具合である。

この中でも、私が最も好きだったのが『飛び出せ!青春』であった。これが見たくて見たくてたまらなかった。この番組は知らなくても、OP曲の『太陽がくれた季節』を聞いたことがないという人はめったにいないであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=K1XZe33pLf0

ちなみに歌といえば『われら!青春』の挿入歌『ふれあい』も好きだった。

https://www.youtube.com/watch?v=xwiZuqzJPng

まあ、歌はともかくとして、とにかくこの青春シリーズが見たくて見たくてたまらなかった。

ところが、この時間、うちでチャンネル権を持っていたのは祖父だった。「日曜8時は大河ドラマを見る」と決められてしまっていたのであった。

昔はテレビは一家に一台しかないし、ビデオも家庭にはない。番組を見たければ、その時間に見るしかなかった。

そこで私は毎回「裏番組を見せてほしい」と頼み込んでは、ダメだと言われる日々を送っていた。

大河ドラマが終わった瞬間にチャンネルを回してみると、いつもドラマの最後の数分間のみ見ることができた。だから、これらのドラマの最後の方しか覚えていない。

それでも、たまに祖父の機嫌がよかったりした時に「今日は、そっちを見てもいいよ」と言われて、喜び勇んでチャンネルを回して、青春物を見せてもらったりした。だから、数回はちゃんと見ることができたのである。

「そんなに言うなら、半分だけ見てもいいよ」と言われて、前半だけ見せてもらったことも何回かあった。

後は日曜の8時にたまたま親戚や友人の家にいた時にも、『飛び出せ!青春』なんかを見ることができた。親戚や友人など、たいていの家庭では『青春シリーズ』の方を見ていたのである。なんで、うちだけ大河ドラマを見てるんだろう、と当時は思っていたものだ。

だから大河ドラマは怨恨の念をもっていつも見ていた。それでいい印象があるはずもなく、その頃の大河ドラマについては断片的な記憶しかないわけである。こんなドラマがあるせいで青春シリーズが見られないんだ、といつも憎々しく思っていた。

それが初めて逆転したのが『国盗り物語』であった。このドラマを見るに及んで、初めて裏番組ではなく、大河ドラマの方が面白い、と思うようになったのである。

だから青春シリーズに続く『俺たちの旅』シリーズなどはほとんど見た記憶がない。

でも、今思うと大河ドラマの方をよく見ておけばよかった。昔の大河は、総集編しか残されておらず、今見たくても、もう見ることができないのである。

断片的にしか記憶のない大河ドラマの細部がどうしても気になってしまう。しかし、それを見るすべは永遠に失われてしまった。なんでNHKはビデオを保存してくれなかったのか・・・・。

特に『樅の木は残った』・・・これは今見るとものすごいドラマである。あれをもう一度フルで見てみたい。

当時は『飛び出せ!青春』の裏番組で、恨みの対象でしかなかった番組だが、断片的にしか残っていない記憶を何とかつなぎ合わせることはできないのか、と思ってしまったりするのである。

最後に。『俺は男だ!』の主演俳優が、私の近所に家を建て、千葉県知事になるなどとは、当時はまったく思っていなかったなあ。
 

子供の頃の歴史認識

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 7日(金)04時22分10秒
返信・引用 編集済
  『国盗り物語』のことをずっと書いているのだが、ここまでなぜ『国盗り物語』にこだわるかといえば、これによって私の歴史認識が形成されたからである。

幼いころ、歴史の勉強などはしていなかったから、歴史に関する知識は、大河ドラマを見ている印象からくる断片的なものしかなかった。

記憶も断片的にしかなかったのだが『天と地と』を親と一緒に見ていて、私はこう思いこんでいた。

日本を、武田信玄と上杉謙信とが2分して戦っていたんだなあ、と。

だって、上杉と武田が戦っている場面ばかりだったから、この2人が日本を二つに分けて抗争を展開していたのだと思い込んでしまったのである。

その頃、家に「信長と秀吉と家康」というタイトルの歴史書が置いてあった。当時はそれを読めるほどの読解力がなかったが、親からそうした武将がいるという話は何となく聞いていたので、私は上杉VS武田の時代の後は、織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の3人が日本を3つに分けて戦っていた時代があった、と考えていた。

子供の頃の知識なんて、テレビの受け売りだから、そんなものである。

同じころ『水戸黄門』を見ていたため、水戸黄門は日本で一番偉い人物なのかと思い込んでいた。だって、みんな黄門様にひれ伏すんだもん。

だから、ある時、江戸城に登城するシーンで、黄門様が将軍にひれ伏しているシーンを見て愕然としたものだ。もっと上がいたのか!

愕然とする私を見て、親は言った。「そりゃ、将軍の方が上だよ」

どうやら将軍様というのが一番偉かったらしいということが分かった。

だから、『一心多助』というドラマで、将軍に堂々と意見する大久保彦左衛門を見て、「この人と水戸黄門とどっちが偉いのだろう」と考え込んだりした。

さらに同じ頃『樅の木は残った』を見ていて、原田甲斐は、日本の政治を動かしている大人物、というように思いこんでいた。

話は戻る。『国盗り物語』を見て私が衝撃に思ったこととは、「信長と秀吉と家康とは、敵対していたんじゃなくて、同じ仲間だったのか!」ということであった。そのことを『国盗り物語』によって初めて知ったのである。

しかも、時々、武田信玄や上杉謙信の話題も出てくる。こいつらも同じ時期に生きていたのか!

武田と上杉とが日本を二分していたわけではなく、この2人がやっていたのが地方の争いに過ぎなかったのにも驚いた。

みんな戦国時代の人物だったのかあ!

同じ頃、小学校の授業でも、初めて歴史というものを学んだ。教科書には、日本地図に戦国時代の勢力図が描かれていて、戦国武将の名前が書かれていた。

「武田信玄と上杉謙信は、この程度の勢力だったのかあ、意外に小さく、日本を2分していなかったんだな」とか、
「信長と家康は書いてあるけど、秀吉は信長の家臣だから書いてないんだな」とか思った。

その中で、長宗我部元親という名前が目についた。長宗我部! こんな変わった名前の武将がいたんだあ、と名前を見て衝撃を受けた。四国は長宗我部かあ。

九州は、竜造寺隆信と大友宗麟と島津貴久の3人が3分していた。3人とも、なんだか格好よさそうな名前だなあ。特に竜造寺隆信って名前が一番カッコイイ。

島津貴久は、大人になってからちょっと疑問に感じた。竜造寺隆信と大友宗麟と同時代だったら、島津義久じゃなかったのかな。でも小学生の私は「九州南部は島津貴久」と心に刻んでいた。

『国盗り物語』のことを書いていたら、子供の頃のそんな話を思い出してしまったので、なんとなく書いてみた。

『国盗り物語』にものすごくこだわってしまっているようだが、これだけ決定的に自分の知識を刷り込まれてしまったのだから、そう思ってしまうのも仕方のないところである。

私の意識は『国盗り物語』からなかなか抜け出すことができないのである。
 

光秀の最期

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 6日(木)04時26分7秒
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  そういえば光秀の最期を具体的に描いているのは『豊鑑』だけだったなあ、と思って、最近になってまた『豊鑑』をぱらぱらとめくって見てみた。

『豊鑑』には光秀の最期がけっこう詳しく描かれている。月明かりの下、山崎の合戦で敗れて数騎の兵だけを連れて小栗栖を落ちていく途中、ヤブから突き出された土民の槍に腹部を突きさされてしまう。

しばらくはそのまま何事もなかったかのように馬上進んで行くが、数百m行って、馬から転げ落ちてしまう。

「槍に刺されたが、その場で騒ぐと敵が勢いづくと思って、ここまでこらえていた。しかし、これが限界だ。ここで死ぬので首を討て」と家臣に命じて息絶える・・・・って、こんな感じだったと思う。

『豊鑑』を書いたのは竹中重門である。重門といえば、竹中半兵衛の息子であり、豊臣政権に直接参加していた当事者である。

同時代を生きた人間が書き残している記録であるから、その内容は信憑性が高いものと思うのだが、あまり史料としては使われていない。

それは『豊鑑』の文体故であろう。『豊鑑』は、その名称からも分かるように非常に文学的な作品である。重門は文章を書くのが上手な人間であったのだろう。読みものとして達筆な内容になっている。

この「書き方が小説的」という点で、あまり信憑性を置かれていないのであろう。『信長公記』が史料としてよく引用されているのは、いかにも記録的な、つまり文学的でない文体であったからだと思う。しかし、現場の声を直接聞く機会のあった人物の描き残したものについては、無視するべきではないと思っている。

『豊鑑』が描かれたのは、重門の晩年であったから当てにならない、という人もいる。しかし『信長公記』だって太田牛一が晩年になって書いたものだから、同じである。

また、「本能寺の変当時、重門はまだ子供(10歳くらい)だったから、子供のころの記憶は当てにならない」という人もいる。

そんなことはない。だって、私は子供の頃に見た『国盗り物語』を現在でもかなり鮮明に覚えている。ましてや本能寺の変のような大事件であったなら、その当時見聞したことを大人になってもよく覚えているのではないだろうか。

光秀の最期を描いた小説やドラマは、だいたい『豊鑑』の記述を基にしていて、私も光秀は小栗栖で土民に殺されたものとずっと思っていた。

最近になって、当時の公家の日記から「光秀は醍醐で土民に殺された」という説の方が主流であるということを知った。

小栗栖じゃなくて、醍醐が光秀の最期の地だったのか! 『豊鑑』に書いてあったことは間違いだったのか・・・・。

そこでgooglemapで醍醐と小栗栖の位置関係を調べてみたら・・・近いじゃないの。その距離の差は数百mにすぎない。

これって、結局同じ場所のことを言っているんじゃないの。地名としては小栗栖よりも醍醐の方がメジャーであるから、公家の耳には「醍醐」として伝わったのだと思う。

ということで、今も私は『豊鑑』の記述通り、光秀は小栗栖で土民に殺されたという記述を信じているのである。

ところで、この『豊鑑』、現在ではネットで無料で本文を読むことができる。昔は掲載している書物を手に入れるのが大変だったものなのだが、便利な時代になったものである。

ちなみに私の手元にある『豊鑑』は昭和初期に刊行された校訂日本文学大系に収録されているものである。やっぱり文学として扱われているんだなあ。
 

徳川家康

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 5日(水)03時59分34秒
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  家康もいろんな役者が演じてきているが、やはり私にとっては寺尾聡の家康が最も印象的であった。

寺尾聡といえば一般的には「ルビーの指輪」などで知られているであろうし、現在ではすっかりおじいちゃん俳優になってしまっているが、『国盗り物語』では本能寺の変までしか描かれていないということもあってか、とても若々しく、ひたすら誠実な人物として描かれていた。当時の寺尾聡は20代であったと思うから必然的に若々しいイメージになるのである。

『直虎』でも、なんと半世紀近くぶりに寺尾聡が徳川家康を演じていたのであったが、さすがに年月が経ちすぎていて、同じ人物が演じているとは思われない変貌ぶりであって、逆にがっかりしてしまったりした。

寺尾聡の徳川家康は、信長にいいように利用されていた。越前攻めでは、最前線で戦わされた上に、浅井の裏切りの為に、信長に置き捨てられてしまう。

それでも文句ひとつ言わず、金ヶ崎城で、秀吉や光秀と共に、殿戦に参戦するのである。

後の陰謀好きのイメージはまったくなく、なんていいやつなんだろうというイメージが残った。

家康といえば信長の唯一の同盟者といったように言われているが、当時の信長の意識からすると、ほぼ家臣と同じように捉えていたのではなかっただろうか。

そういう意味では圧政者信長の被害者でもある。だからなのか、光秀に対しては、常に同情的な立場でいたように感じていた。ただし、光秀と違って直接的な被害には遭っていなかったが、信長のプレッシャーは相当に感じていて、誠意を示し続けなければならない立場であったのだろう。

一番印象に残っているのは、三方ヶ原の合戦で敗れた時の家康である。命からがら浜松城に戻ってきた家康は、「ひどい負け戦だが、俺は今日大きなものを得た。それは戦国を生き抜くために、なくてはならぬ信用よ」というセリフ。

人はどんな戦略を立てようが、信用がなければそれを実現することはできない。信用のない武将は、結局は大事を成し遂げられないのである。三方ヶ原の合戦で家康はボロボロに負けてしまったが、その代わり、「家康は、勇気があり、信用できる人物だ」という評価を勝ち取ることになる。

遥かに後になって、「徳川殿は信用できる人物だ」という評価を逆手にとって、彼は天下を取ることになるのである。

当時はそこまで考えてみていたわけではなかったが、子供の私でも家康が後に江戸幕府を開く人物であることは知っていた。

ここで得た信用があったからこそ、この人は天下を取ることができたんだなあ、などと思いながら見ていたものである。
 

福原西城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)04時10分51秒
返信・引用
  栃木県大田原市のお城。

福原城の背後にあり、谷間と挟んで福原要害城と向かい合う位置にある。

独立性の高い2つの郭が配置されるという、変わった形状の城郭である。

それにしても場所が分かりにくいので、迷ってしまった。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/ootawarasi02.htm
 

大沢御殿!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)04時07分36秒
返信・引用
  これも日光市のお城というか御殿跡。

将軍家光や家綱が日光参拝の際に宿泊した御殿の跡である。

現在も土塁や虎口などが残されているが、まったく手入れされておらず、ヤブに埋もれてしまっている。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/nikkousi02.htm#oosawa
 

長武山城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)04時04分6秒
返信・引用
  栃木県日光市のお城。

比高50mほどと、それほど高くはないのだが、斜面が急峻な山に築かれている。

かつては城内に神社jが祭られていたようだが、現在では廃墟になってしまっている。

全山ヤブなので、歩くのが至難な山城である。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/nikkousi02.htm
 

伊釜山城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)04時02分11秒
返信・引用
  これも宇都宮市のお城。

ハイキングコースにもなっている伊釜山に築かれている。

山中に林道が通っており、北側の尾根続きにまで車で行くことも可能なので、簡単にアクセスできる。

規模は小さな山城である。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/utunomiyasi02.htm#ikama
 

外和田城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)04時00分18秒
返信・引用
  栃木県宇都宮市のお城。

平地の城館であるが、豪族の居館にしては規模が小さいことと、城塁の2か所に折れがみられることからして、単なる居館というよりは、陣城の一種であった可能性が高いと思われる。

堀や土塁の一部が埋められているが、それでもよく残っている方である。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/utunomiyasi02.htm
 

老沢城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)03時58分28秒
返信・引用
  これも鹿沼市の城。

久我城の対岸にあり、久我城の支城であったかと思われる。

山麓に小学生の描いたと思われる案内板が設置されており、なんとも微笑ましい。

しかし、道はなく、あちこちに岩盤が露出した山を直登していくことになる。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/kanumasi05.htm#oisawa
 

諏訪山北城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)03時56分30秒
返信・引用
  栃木県鹿沼市のお城。

諏訪山城と尾根続きの北側にある。諏訪山城もなかなかよくできた城郭であったが、こちらも非常に技巧的な個所が見られる城郭となっている。

導入路を複雑にしているところは諏訪山城とよく似ており、同じ築城主体によるものだと思われる。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/kanumasi05.htm
 

Re: 滝の城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 4日(火)03時54分37秒
返信・引用
  > No.6512[元記事へ]

あんけんさんへのお返事です。

なるほど、そういうことでしたか。発掘の場合、勝手に写真を公開されると困ってしまうこともあるようなので、写真の公開には気を使いますよね。

それにしても、これだけたくさんの障子堀が検出されているのですね。こういう形状の生じ堀は、やはり北条氏の関連によるものということなのでしょうね。
 

Re: 滝の城

 投稿者:あんけん  投稿日:2020年 2月 3日(月)13時02分41秒
返信・引用 編集済
  > No.6508[元記事へ]

余湖さんへのお返事です。

> あんけんさんへのお返事です。
> 全世界に公開してはいけないとは、なかなか厳しいですね。
すみません、書き方が不十分でした。世界中の誰でも見られる場所へのアップはダメだけれどメンバー限定のコミュとか視る人を限定できる場なら良いよと言う意味(笑顔で)で、恐らく神社の横で見つかってる横穴墓群と同様に安全上の理由だと思います。

あと6だけでなく5~8の全てが郭でなく大型の土塁とされ、2、3、7で囲まれた本郭虎口の渡った先が馬出とされてる場所で、7横から3横へ曲がって渡った場所が外側の門跡とされてました。7、8の間と7の外側には障子堀も発見されてます。

画像1:3の郭(三の丸)入口から見た馬出。左奥は二の丸、右奥が立ち入り禁止になってる7、8の土塁
画像2:6と8の上に立ってる物見櫓址の石柱。発掘はされてないそうです。


市役所などで配布中の『埼玉県指定史跡 滝の城跡 発掘調査概報』です。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/kenshiteibunkazai/bunzai_20100126153048508.files/takinojogaiho.pdf
 

橋本城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 3日(月)04時17分1秒
返信・引用
  これも下野市のお城。

やはり平地に残る平城であるが、こちらは遺構の残存状況が断片的であり、全体形状がどのようなものであったのか、さっぱり分からない。

重厚な土塁が残されているが、これは遺構で間違いないのだろうか。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/simotukesi02.htm#hasimoto
 

細谷城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 3日(月)04時15分15秒
返信・引用
  栃木県下野市のお城。

単郭で小規模ながら、堀と土塁がよく保存されていて驚く。

平地の平城であるが、方形ではなく曲線を描いた形状の単郭となっている。平城としては珍しい形態の城館である。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/simotukesi02.htm
 

神楽岡城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 3日(月)03時49分45秒
返信・引用
  栃木県栃木市のお城。

あまり知られていない城郭だが、規模も大きく遺構の残存状況も良好で、なかなか面白い城である。

富張というところにあるが、これは「遠見張」がなまったものであるという。

宇都宮氏に対して皆川氏が築いた城で、北方の西方城と対峙していたものだと思う。

ヤブもなく、散策していて楽しくなる城郭である。

http://yogoazusa.my.coocan.jp/tugamati.htm#kagura
 

Re: 滝の城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 2月 3日(月)03時47分26秒
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  > No.6507[元記事へ]

あんけんさんへのお返事です。

滝の城の発掘調査の情報、ありがとうございます。

全面的な発掘ではなさそうですが、全世界に公開してはいけないとは、なかなか厳しいですね。

滝の城を訪れたのはもう20年近くも前のことだと思うので詳しいことは覚えていないのですが、四脚門があったというと、なかなか本格的な城だったようですね。

7は確かに馬出に見えますね。入ったところに枡形もありますし。

天気もよさそうで何よりでした。
 

滝の城

 投稿者:あんけん  投稿日:2020年 2月 2日(日)22時34分34秒
返信・引用 編集済
  今日、本郭の北側虎口の発掘調査の現地説明会が催されました。二の丸との間の空堀に入ってトレンチを見学しましたが、中での撮影素材は全世界に公開してはダメとの事です。

余湖様の鳥観図に沿って書かせて戴きますと藪だったという3の郭は北側に大井戸が見つかって発掘もされており、曲輪内も草刈りされて見学し易くなってます。その外の6の郭は土塁とされ、上に物見櫓址の石碑が。(画像1枚目:大井戸跡の窪み)
城山神社社殿の背後ですが、発掘され四脚門が検出されてます。それ以前の状況を自分は知らないのですが、現状は社殿前より少し高い段差の平坦面になってて、縁が少し高くなってるのみです。(画像2枚目本郭北東隅)
四脚門跡から7の土塁を見下ろすと発掘中の土橋状の遺構になってて、左右対称に柱穴が検出されてます。この角度では見えてませんが写ってる柱穴の手前が深く掘られた後で、埋め戻してそこにも柱を据えていたようです。渡った先の7の土塁との間の場所は馬出とされてました。(画像3枚目:本郭より虎口・馬出方向を見下ろして)
 

竹中半兵衛

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月31日(金)04時13分42秒
返信・引用 編集済
  竹中半兵衛は、秀吉の軍師と言われている人物であるが、『国盗り物語』では、特別軍師としては扱われていなかったと思う。秀吉の良き相談相手といったイメージであった。

米倉斉加年の演じる半兵衛は、妙に力が抜けていて、現実を達観した仙人のような人物像であった。

しかし、それがいかにも頼もしく、思いやりのある善人として描かれていた。

黒田官兵衛が荒木村重の城に拉致されてしまった際、信長は「官兵衛が村重に同調して裏切った」と思い込んで怒り、「長浜城に預けてある官兵衛の嫡子を殺せ」と秀吉に命じる。

秀吉の下には、官兵衛の嫡子松壽丸が人質として預けられていた。松壽丸を殺害したくない秀吉は苦悩する。そして半兵衛に相談する。

その時の半兵衛の姿が印象的で忘れられない。

「長浜へは私が行こう・・・。私が亡き後、官兵衛殿は藤吉郎殿にとって最もよき相談相手になる人物。官兵衛殿の気持ちが離れてしまうようなことをしてはなりますまい」

「松壽丸を助けるのか!」

「罪は私がかぶります・・・」

信長の命令に逆らうことは、よくて追放、悪ければ死罪になりかねない行為である。それを知ったうえで、半兵衛は自ら罪をかぶって、松壽丸を殺害しないことにしたのである。

この辺りの下りは原作の『国盗り物語』にはなく、『播磨灘物語』に描かれているエピソードであることを後に知った。

あの恐ろしい信長の命令に逆らって、半兵衛が自らの身を顧みずに松壽丸の命を救う・・・なんて立派な人物なのだろうと思った。

それにしても秀吉はちょっとずるい。半兵衛に相談すれば、半兵衛がそのように行動するであろうことを見越していて相談したのであろう。

その後、自らの居城で松壽丸を薫陶して育てる半兵衛の姿が描かれていた。ナレーションでは「半兵衛は己のもつすべての知略をこの幼い子供に伝達した」とあった。松壽丸を馬に乗せて夕陽に向かって走る半兵衛。そして三木城攻めの陣中で、半兵衛は病没する。

伊丹城が没落した後、そこからボロボロになった官兵衛が救出された。官兵衛に面会した信長は、めずらしく「勘兵衛よ、許せ」と後悔した。

「お許しください。実は、官兵衛の息子は、半兵衛がひそかにかくまっておりました」という秀吉の言葉に安堵した信長は「官兵衛といい、半兵衛といい、猿めは、いい家臣を持ったものだ」とつぶやくのである。

半兵衛が天才的な軍師のような人物であったのかどうかは知らない。しかし、聡明で思いやりのある立派な人物であったことはこのエピソードから感じたものだ。あの米倉斉加年の力の抜けたような半兵衛の姿は決して忘れられない。

後に『関ケ原』を読んだときに、松壽丸(後の黒田長政)の行動を見て「秀吉に助けられたくせに、何で家康の味方をするんだ。半兵衛から教えられた知略を豊臣家没落のために使うのか!」と憤慨したものである。

近年になって、三木城の付け城群を回った際に半兵衛の墓に詣でることができた。「これがあの半兵衛の墓か」と思って、手を合わせた。感慨深かった。

竹中半兵衛もそんな意味で、私にとって印象深い人物なのであった。
 

雑賀孫市

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月30日(木)04時11分18秒
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  『国盗り物語』において、秀吉と並んで最も好きになったキャラクターが雑賀孫市だった。

孫市はとにかくいいやつだったのである。明るく友達思いで、その上実力者でもあった。大河で実力者として描かれていたので、子供の私は、雑賀衆というのは、武田や毛利と並ぶくらいの勢力を持っているのだと思っていた。まあ、雑賀衆を石山本願寺に置き換えてしまえば、武田や毛利と同程度に織田家に脅威であったことは間違いない。

その行動も颯爽としていて、見ていて気分がよくなるほどだった。

なぜ『国盗り物語』で雑賀孫一?と思ってしまうところであるが、大河ドラマ『国盗り物語』の後半においては、同じ司馬遼太郎作品の『新史太閤記』『梟の城』『尻啖え孫市』『功名が辻』『播磨灘物語』などにあるエピソードも紹介されていた。

秀吉や黒田官兵衛はともかくとして、なぜか葛籠重蔵や雑賀孫市、山之内一豊なども重要人物として描かれていたのである。

特に葛籠重蔵に関するエピソードは完全にフィクションであり、「このエピソードいる?」と思っていた。重蔵を演じていたのは『太陽にほえろ』の山さんだったので、それなりに印象的ではあったのだが。

雑賀孫市を演じていたのは林隆三であった。林隆三は大好きだったということもあり、それだけでも孫市が気になった。

何しろ林隆三といえば、超絶面白い時代劇の最高傑作、不滅の金字塔と(自分が思っている)『天下御免』で右京之介を演じていた人物なのであった。右京之介もいいやつであったが、孫市もいいやつで、秀吉とのやり取りがとても好きであった。

孫市はある日、たまたま都を歩いていて、どこかの寺院に参詣して階段を登っていたとある女性の足を見てしまう。

その足を見ただけで孫市はその女性にほれ込んでしまう。周囲の人に「あの女はどこの人だ?」と尋ねると、「あれは織田家の姫である」という答えが返ってきた。

そこで、その姫を嫁にもらうべく、岐阜城下に乗り込んでくるのである。それも赤い羽織を着て「日本一」という旗指物をさして、である。

織田家では、それが雑賀家の惣領であるらしいことを悟り、何とかして、雑賀衆を味方につけようとして、秀吉に孫市を味方に取り込むようにと使命を与える。

そこから秀吉と孫市との交流が始まって行くのである。

信長の前で鉄砲衆の実力を披露し、越前金ヶ崎城の殿戦においては、秀吉と共に織田家のために大活躍をする。

しかし、孫市が見たというような女性は織田家にはおらず、信長は適当な女を孫市にあてがおうとしたのだが、女を見る目の優れている孫市はそんなものには騙されない。「この女ではない」とすぐに見破られてしまう。

結局、孫市が見た女性は、石山本願寺の檀家の織田家の女性であった。そこで、孫市は石山本願寺に身を投じ、織田家とは敵対していく、といった具合。

孫市が敵方になってしまったのは残念であったが、最後まで孫市はいいやつとして描かれていた。

そんなわけで、雑賀孫市は、とても好きな人物となったのである。
 

道三

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月29日(水)04時14分47秒
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  平幹二朗の演じる斎藤道三は、子供心にも「これが英雄なんだなあ」と思えるくらい、聡明で人望のある素晴らしい人物であった。

平幹二朗といえば、3年前の『樅の木は残った』で主人公の原田甲斐を演じており、その重厚な演技はやはり印象に残るものであった。わずか3年というスパンで、同じ役者が大河ドラマの主人公を演じたというのは、平幹二朗だけであろう。それだけ役者としての実力が認められていたのだと思う。

齋藤道三といえば、松永弾正、宇喜多直家と並んで、戦国の三悪人などと呼ばれている。しかし、『国盗り物語』の印象のせいか、どうしても道三が悪人だったとは思われないのである。

確かに、さまざまな陰謀を用いて美濃一国の主にのし上がって行くのだが、それがいかにもカラッとしていて明るく、英湯的な行動のように描かれていて、彼の行動にまったく疑問を感じることはなかった。

ただ、大人になってたまたまテレビ新潟で再放送された総集編を見た時には「この人って女性を踏み台にして、いいように利用しているんだなあ」と感じたりした。

お万阿とか、深芳野なんかは、ただただ道三に利用された人生を送ったようなものである。でもどちらも素敵な女性であったのだが。この2人については、後でまた書いてみたい。

道三編の最後の方では、道三が死んでほしくないとひたすら祈っていた。なんとか生き延びてくれないかと。

家族に「道三、死なないよね」と子供の私は何度も訴えていたものだったが、家族は無情にも「こいつは、子供に殺されて死ぬんだよ」と確定的に答えていたので、私は絶望的な気分になってしまっていた。

すでに起こってしまった歴史を変えることはできないのは分かっている。でも、どうにかして、道三が生き延びてくれないかと思い続けていた。

だが、状況は次第に道三を追い詰めていき、私はどんどん沈鬱な気分になってしまっていた。

道三の死が描かれたのは、ゴールデンウイークが終わったころの時期であったことを今でもよく覚えている。

道三を討ち取った小牧源太を演じていたのは小林昭二であった。

「おやじさん、やめてくれ!」と私は思わず叫んでいた。

小林昭二といえば、仮面ライダーのおやじさんや、科学特捜隊のムラマツ隊長などを演じた人物であり、子供にとっては、正義の味方というイメージの強い人だったのである。そんな人がなぜ道三のような立派な人物を殺してしまうのか。

その頃信長は、長良川まで道三救援のため出陣しており、「マムシ、死ぬな!」と叫んでいるシーンが心に残っている。なんとか信長が救出してくれないのか。

しかし、道三は死んでしまった。私はとても悲しい気分になった。家族もみんな沈黙してテレビの画面を見守っていた。

道三が死ぬと、明智一族も没落して、光秀は放浪の旅にでることになる。

その後に描かれた桶狭間の合戦では「信長もとうとう道三の弟子らしいことをやってのけた」と感動したものである。

大人になって「美濃一国譲り状」という文書が実際に残っていることを知った。司馬遼太郎が『国盗り物語』を描くことになったコンセプトは、ここにあったんだろうなあと思った。
 

羽柴秀吉

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月28日(火)04時40分28秒
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  秀吉は、火野正平が演じていたのだが、明るく軽妙洒脱で、有能なうえに心配りの出来る人物として描かれており、『国盗り物語』の中で、とにかく、この秀吉が一番好きであった。

信長に接する対応法など、光秀と秀吉を対照的に描いていたように感じていた。

秀吉の対応法が最もうまく描かれていたのは、京都奉行に選任された後の対応であったろう。足利義昭も「織田家には容易ならぬ人物がいる」と感服してしまった。

苗字を「木下」から「羽柴」に改めた時のシーンをよく覚えている。

「秀吉め、新しい苗字を名乗りたいというから、どんな気取った苗字を付けるかと思いきや、羽柴とは笑ってしまうわ」と、いつも秀吉を嫌っている柴田勝家(宍戸錠)も心憎からず笑っていたのを思い出す。信長も笑っていた。

それにしても羽柴とはうまく付けたものだ。織田家の2大宿老ともいうべき、柴田勝家と丹羽長秀(丹羽長秀の方はこのドラマでは影が薄かったが)の1文字ずつを頂戴して「お二人にあやかりたい」という名前が羽柴である。まさに気遣いの名前だ。

しかも柴丹や丹柴ではなく、羽柴としたのがミソであると感じた。

羽を先に持ってきているが、これは丹羽氏の下の字である。

柴は後に持ってきているが、これは柴田氏の上の字である。

つまり両氏の文字を1文字ずつ使用しながらも、両氏の間にまったく序列をつけていないのである。子供ながらに「なるほど」と思ったものである。

信長に対して「私は朝鮮をいただきとうございます」と宣言する場面とか、とにかく印象的な場面が多かった。こういう人物が出世していくんだろうなあと、子供心に思っていたものだ。

秀吉は光秀とは対照的に、常に信長との関係は良好であったが、それでも信長に対してプレッシャーを感じていたであろうことも何となく理解できた。

宇喜多直家の帰服をとがめられたり、山中鹿之助を見殺しにしろと言われたり、信長に叱責されるシーンもけっこうあり、黒田官兵衛の嫡子を殺害せよと命令された時には、かなり苦悩していた。

柴田勝家と北陸で喧嘩して、単独長浜に帰ってきた話は、信長もぶちぎれて「猿を殺す」と言っており濃姫に諫められていた。これには、さすがにかなりやばいんじゃないの、って感じた。運よく松永弾正の謀反が起きたので、秀吉が駆り出されて、織田家を助けることになり、名誉回復した。

中国の陣で信長の死を聞いた時、子供のように泣きじゃくっていた姿が最も印象的であった。


ところで、『国盗り物語』が放送された翌年、2つの時代劇が同じ時間帯に放送されることになった。

1つは『斬り抜ける』で、主演は近藤正臣と火野正平(光秀と秀吉)

もう1つは『ぶらり新兵衛 道場破り」で主演は高橋英樹(信長)

いずれも『国盗り物語』の主要キャストが主演を務めているのでとてもうれしく、両方見たかったというのに、「なんで同じ時間帯にやっているんだよ!」と思ってしまったものだ。どちらもとても面白い時代劇であった。

光秀と秀吉を選ぶか、信長を選ぶか、迷った挙句、私は『斬り抜ける』を見ていた。こちらはとても面白いうえに実に斬新な時代劇であった。あのような妙な部分にだけリアリティな考証をした時代劇は他にはない。(たとえば、どんな優れた日本刀であっても、人を斬ると血と脂が付着するため、2人までしか斬ることができない)とか。松平はずしなんて本当にあったのかなあ。

そんなにしっかりと考証しているのに、なぜか近藤正臣はデニムを履いていて火野正平は毛布をかぶっているという不思議なドラマだった。

それでもとても面白かったのに視聴率的には苦戦して、半年で終わってしまった。「ぶらり新兵衛」の方は1年ほどやっていたと思うから、視聴率的には近藤正臣よりも高橋英樹の方が、強かったんだなあと思った。

それはともかく、このドラマの秀吉を見て、「秀吉って本当に魅力的な人物なんだなあ」といつも感じており、この秀吉を見るのが楽しみであった。
 

小牧山城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月27日(月)04時12分6秒
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  『国盗り物語』によって印象に残ったのは登場人物だけではない。

小牧山城もそうであった。

信長は美濃攻略を行う際に、より美濃に近い小牧山城に、清州城から本拠を移すことになる。

その際にテレビの画面には小牧山城の姿が映し出されていた。それを見て「おや!?」と思った。

テレビに一瞬、三層の天守閣が映った。

「小牧山城に天守が建っているのか?」これに驚いた。

というのも、当時私が城の知識の一番基本としていたジャポニカの百科事典の小牧山城の項目には天守が存在するとは書かれていなかったからである。

ないはずの天守が画面に映っている。これはいったいどういうことか?

そこで自分なりに一生懸命に調べてみた。といってもインターネットなどあるはずのない時代であり、小学生が調べられることは限られていた。

図書館に行っては、城の本、歴史の本、はては地誌類などを探しては、小牧山城の天守が掲載されていないかを探し回った。

しかし、小牧山城の天守が掲載されている本を見つけることはできなかった。あれは幻だったのであろうか。自分の見間違いか?

そうして探し続けて10年、大人になった時に手にした城の本『日本の名城』(秋田書店)を見て初めて、小牧山城の天守の姿を書籍の中に発見することができた。小牧歴史館という模擬天守が建てられているようであった。

「やはり、あれは幻ではなかったんだなあ」感動である。長年探し続けていたものの具体的な姿をはっきりと見ることができたのである。

ということで、10年ぶりの疑問が氷解し、天守があるなら行ってみよう、ということで早速小牧市まで旅行してきた。

目の前にそそり立つ三層の模擬天守を見て、「昔、『国盗り物語』で見た天守はこれかあ」、と思ってとても感慨深かったものである。

これも『国盗り物語』に関する懐かしい思い出の1つである。
 

Re: 織田信長

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月26日(日)04時38分54秒
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  > No.6500[元記事へ]

ひづめさんへのお返事です。

お返事、ありがとうございます。

この後しばらく、国盗り物語の役者の思い出話が続いて行く予定です。

大河ドラマの『太閤記』あたりはさすがの私も幼すぎて記憶に残っていません。『源義経』だけは、最後の弁慶の立ち往生のシーンが怖くて怖くて、母親の背中に隠れて見ていたことだけ、はっきりと覚えていますが、私の大河ドラマの記憶はそこからです。

高橋幸治の信長は本当に、信長らしいと思いました。現在、youtubeで本能寺の変の回を見ることができますが、最期に至っても落ち着き、堂々としていますね。

『天と地と』では武田信玄を演じていましたが、やはり、威風堂々として威厳がありました。

それ以外の役者についても、おっしゃる通り、とても風格があったように感じます。演出のせいなのか、役者そのものの質が現在とは違っているのか、昔の大河の役者はみな、演技が素晴らしかったように感じられます。


今思うと、『国盗り物語』では、いろいろと言われている本能寺の変の動機のほとんどがすでに出ていました。

信長への怨恨、パワハラに耐えられなくなっていく精神構造、長曾我部との関係、斎藤利三を巡るやり取り、比叡山など伝統的権力を破壊する信長に対する怒り、さらに、信長を殺害してからは、「足利将軍を復活するためだ」とか「細川藤孝の子に天下を譲るためだった」とか、自分の行為を正当化するために、さまざまな後付け理論を展開し迷走していく様など、いかに光秀が悩んでいたのかが分かります。

そうした複合的要素に加えて、たまたま信長を確実に殺害できるような状況が存在したことによる突発的な出来事が本能寺の変だったのだと思っています。

いくらパワハラに耐えかねていたとはいっても、たやすく信長を討てるという状況がなかったなら、謀反など起こしえなかったでしょう。

決して、朝廷にそそのかされたから、とかいった単純な原因で発生する事変ではなかったと思います。


 

Re: 織田信長

 投稿者:ひづめ  投稿日:2020年 1月25日(土)23時22分54秒
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  > No.6499[元記事へ]

余湖さん

本能寺の連載論考、大変面白く読んでいます。特に幼い頃からあんな本質的なところを突いて疑問を持ったとはさすがです。いまだからより際立って疑問度が高まりますね。「本能寺6」以降も期待しています。

高橋幸治の名前が出ましたが、私の信長もこの人で決まりです。ついでに書くと、『太閤記』では織田信長の高橋幸治、明智光秀の佐藤慶、翌年の『源義経』では源頼朝の芥川比呂志、藤原秀衡の滝沢修などは、小学生の自分にも役者の存在感の大きさが印象的でした。もう一つついでに書くと、朝のテレビ小説「おはなはん」の旦那も高橋幸治で、8時25分まで見てから走っていけば小学校にぎりぎり間に合っていました。以上、どうでもいい話でした。
 

織田信長

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月25日(土)05時56分20秒
返信・引用 編集済
  信長を演じていたのは高橋英樹であった。この信長もまた印象深く、信長ってこんな人だったんだろうなあと思い込んでしまったものである。

高橋英樹の信長は、風貌颯爽としているだけでなく、声が朗々としており、いかにも乱世の英雄的な人物であった。

ただ、光秀を怒る時の頬をぴくぴくさせる演技は怖かった。

主義主張ははっきりとしており、自分のイメージする信長像はこれによって決定づけられたような気がする。

おそらく高橋英樹が役者としてメジャーになったのは、この信長役がきっかけなのではなかろうか。

自分は「この人って本当に信長らしいよね」と言っていたものだが、そういうと家族は「いや、本当に信長らしいのは高橋幸治だ」と口をこぞって言っていた。


高橋幸治は、さかのぼること8年前の大河ドラマ『太閤記』によって信長を演じた人物であり、その信長役は全国的に評判になったらしい。

本能寺の変が近づいてくると、全国から「信長を殺さないでくれ」という嘆願署名がNHKに山のように届けられたというエピソードが残っている。

さすがに昭和40年の『太閤記』はまったくとしてよいほどに記憶がなく、その時の信長がどのようであったかは思い出すことができなかった。

後に『黄金の日々』で『太閤記』の信長と秀吉が再現され、初めて高橋幸治の信長を見ることができた。

それを見て、私も高橋幸治の信長が最も信長らしいイメージを醸し出していることを認めざるを得なかった。

威厳を持って粛々と家臣と接する姿は、一般的に言って、信長像に一番近いものだった。

でもやはり、一番好きな信長は高橋英樹の信長だった。

たいがいのドラマでは信長は光秀だけに冷たくする場面が描かれているのだが、『国盗り物語』では、信長の行動原理が分かりやすく描かれており、家臣のどういう行動に対してどういう反応をするのかということが、見ている人にも手に取るように描かれていた。

秀吉と光秀が対照的に描かれていたので、分かりやすかったということもある。

最終回の1歩手前で信長が死んでしまった時、「信長のような死にそうもない男も死んでしまうのかあ」と思ったものである。

ちなみに自分が初めてドラマで本能寺の変を見たのも、これが最初であった。
 

明智光秀

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月24日(金)04時13分30秒
返信・引用 編集済
  このところ、国盗り物語ネタを書いているが、先にも書いた通り、この大河ドラマを見たことで、私は歴史が好きになった。

このドラマにはまってしまったがゆえに、子供だった私は、戦国武将のイメージというものを、このドラマによって刷り込まれてしまった。

乾いた布に水がしみ込んで行くように、自分の頭の中に歴史の人物像がどんどんと入り込んで行き、自分の心の中を支配していった。

だから、どうしても戦国時代の人物を思い出す際に、最初に刷り込まれたイメージで思い出してしまうのである。

明智光秀を演じていたのは近藤正臣であった。いまだに明智光秀というと、近藤正臣の演じていた明智光秀の姿が真っ先に思い浮かんでしまう。

近藤正臣の明智光秀はかっこよかった。そして誠実一途な性格の人物であった。真面目でありすぎる故に、信長に疎まれてしまう。

そして、最後はやることがすべて裏目に出てしまう。

国盗り物語の後半は、光秀の目を通して描かれているので、どうしても光秀に感情移入してしまって、信長に恐怖と不満を抱いてしまったものだ。

原作にはないが、最後に小栗栖で、土民の竹やりに貫かれた落馬した後、

「わしは行かねばならぬ。この手で乱世を終わらせねばならぬ。そしてこの目で人々の喜ぶ声を・・・・」と発しながら息絶えるシーンがいつまでも心に残った。

その後、いろんなドラマでいろいろな人物が光秀を演じているが、近藤正臣の明智光秀ほど、魂を揺さぶられたことはなかった。

このドラマが終わった直後、『斬り抜ける』という時代劇で近藤正臣は主役の楢井俊平を演じており、このドラマにもまたはまってしまったのであった。

『斬り抜ける』の近藤正臣は、さらにかっこよかった。
 

本能寺5

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月23日(木)04時10分31秒
返信・引用 編集済
  本能寺の変について昔から疑問に思っていることがもう1つある。

変の原因は今まで述べてきたように、追い詰められていた光秀の心理そのものにあると考えている。

だが、その時、信長が非常に手薄な状態で本能寺にあり、周囲に軍勢を集結している織田家の軍団長が自分だけであった、という状況があってこそ、実際に実行に移したのだと思う。

「今なら、確実に信長を討つことができる」という状況が精神的に追い詰められていた光秀の背中を押したというのが決定的な理由であり、それが困難な状況であったなら、光秀は変を起こさなかった可能性が高いと思う。そういう意味でも本能寺の変は突発的な出来事であったはずである。

光秀以外の軍団長がすべて遠隔地に出払っていた、というのは昔からよく言われていることである。

秀吉は中国地方で毛利と交戦中であり、すぐに戻れるはずがない。

柴田勝家は北陸で上杉と交戦中で、やはりすぐに戻れる状況にない。

滝川一益は関東地方で北条氏と対峙しており、都に戻るには非常に時間がかかるであろう。

徳川家康はわずかな供をつれて安土で信長に接待されており、すぐに軍勢を動かすことはできない。

織田信孝と丹羽長秀は四国征伐のため堺で兵を集結中であった。

うん? 兵を集結中? 軍勢、いるじゃん。

つまり、変の時に光秀以外に織田の軍勢が近くにいなかった、というこれまでの説明は間違っているのではないか。

信孝はいったい何をしていたのであろう。(丹羽長秀は最近の研究では四国征伐の司令官にはなっていなかったということになっているようだ)

織田信孝に関しては、四国征伐のために1万程の兵を集めており、しかも四国に渡海する直前であり、堺にいたのであるから、明智に匹敵する兵を持ちながらも、変の後、何もしなかったことになる。

直接、光秀と合戦する勇気はなかったにしても、軍勢を対峙して光秀をけん制することくらいできたのではないだろうか。堺と都とは半日もあれば移動できる距離である。戦国の武将であれば、自分の軍勢を有効に使う手立てがあったはずである。

このことも、子供のころから疑問に思っていた。

最近になって知ったことなのだが、ルイス・フロイスの記録によると、変を知った後、信孝の兵は逃げ散ってしまったのだという。

まあ、逃げ散ってしまうようでは、光秀と対峙することはとうていできないであろう。それにして情けない。信孝には武将としての器量は備わっていなかったのであろうか。

それにもまして、光秀は、堺に織田信孝の兵1万がいる、ということは変を起こす際に脅威として感じていなかったのであろうか。

変の後、信孝は何をやっていたのか、それがどうしても理解できなかったのであった。
 

竈門炭治郎のうた

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月22日(水)05時06分39秒
返信・引用 編集済
  最近になって鬼滅の刃にはまっている。
原作も面白いのだが、アニメの作画がとても素晴らしい。

曲もいい。なかでもアニメの19話のEDで使用された、竈門炭治郎のうたがとても好きである。

youtubeでは、さまざまな形態で紹介されているが、この二胡演奏がとても気に入った。聞きほれてしまう。中国の方なのかな。

「失っても失っても生きていくしかない。どんなに打ちのめされても守るものがある」
これ、本編での炭治郎のセリフだよなあ。

https://www.youtube.com/watch?v=wjqu1pRgpfg

こんなのもある。こちらは、しのぶさん&禰豆子のコスプレで演奏している。

https://www.youtube.com/watch?v=J2sRoTCJD0k

でもやっぱりオリジナルが一番いいなあ。後半部分のアレンジがとても好きだ。

https://www.youtube.com/watch?v=HXbrdep1_n0&t=25s

今年は劇場版も公開されるし、アニメも2期をぜひやってほしいものだと思う。
 

Re: 香取市油田城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月22日(水)04時18分0秒
返信・引用
  > No.6494[元記事へ]

k23さんへのお返事です。

初めまして。情報、ありがとうございます。

今回教えていただいた図の西側にある城については、まったく未見でした。

というのも、千葉県の遺跡地図で記されている油田城は、図の東側の部分だけとなっており、私が訪れたのも、図の東側の部分だけであったと思います。

つまり、遺跡地図では西側の部分の遺構については城址として認識されておらず、ここに城郭遺構があるなどとはまったく知らなかったのです。

図を見る限りでは西側の部分の方が城址としてはまとまりがよく、いわゆる油田城というのは、西側の部分のことを指しているのではないかと感じられます。

相横矢をかけている虎口など、いかにも戦国期の城郭のように見えますね。

時間を見つけて、ぜひ、訪れてみたいと思います。

それではまたです。
 

香取市油田城

 投稿者:k23  投稿日:2020年 1月21日(火)19時57分23秒
返信・引用
  はじめましてK23と申します。
余湖さんのページで城跡探訪に目覚めた初心者です。
素人にも見やすく遺構を想像しやすい鳥観図は重宝しており
友人のみに公開してるブログ等でも使用させてもらい感謝して
おります(もちろん出典は記載してます)

今回は千葉城郭研究第二号に掲載されている油田城(仮)に
行ってきました。台地側よりのルートがなかったため
対岸の織幡青年館付近より台地下に降り、城の先端部より
ルートを探したところ1郭~2郭間の空堀にでる竪堀?兼
堀切道を発見、地権者が林業の方が藪を払ってくれているので
赤線のルートで楽に見学できました。
(2郭内は猛烈な笹薮です)(画像は2郭~3郭間の空堀と土塁)

小見川の城跡としては個人的に森山城に次ぐ№2と思えます。
特に2郭~3郭間の天狗の鼻状の土橋と相横矢は面白いですね。
遺構の大きさや隣の油田砦も考えると、油田の名が示す通り
油の利権が生む財力の証でしょうか?
すでにご存じとは思いますが、万一未見の場合は行ってみてください。
 

本能寺4

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月21日(火)04時13分2秒
返信・引用 編集済
  ここまで述べてきたとおり、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、彼自身がパワハラ上司の圧力に耐えきれなくなったからだと思う。周囲に陰謀をそそのかす連中がいたとしても、それに乗っかかるほどに彼の精神状態が病んでいたからであり、乱を起こした究極的な原因は光秀の心理状態そのものにある、というのが私がずっと思っていたことである。子供のころからこの見方は変わっていない。どんな説が出てきても、である。

ということで、この変の発生原因については、昔から迷うことなく思っていたのだが、発生原因以外に子供のころから疑問に思っていることが、いくつかある。

そのうちの1つが、秀吉の動向である。

秀吉は備中で毛利と対陣中であったが、変の発生当時、毛利との和睦交渉を進めている最中であった。だからこそ、変を知った直後、清水宗治を切腹させることで、和睦交渉を早急に締結することができ、明智勢との決戦のために都に赴くことができたのである。

これがどうもおかしい。

秀吉はなぜ、変の前から和睦交渉を進めていたのか?

今回、秀吉が信長に援軍要請を頼んだのは、名目上は「毛利の大軍に、自分の一手だけでは対抗することができないため上様に出御してほしい」ということであった。

実際には、秀吉一手だけでも決戦で勝てる可能性はあったのだろうが、毛利を自分の一手だけで駆逐することは、秀吉はなんとしてでも避けたかったはずである。

自分の一手だけで毛利を駆逐する・・・それはあまりにも功績が大きすぎる。信長のような猜疑心の深い上司の下にいた場合「これほどの大きな手柄は信長自身に立てさせたほうがよい」と考えるはずである。

秀吉一手で毛利を駆逐してしまった場合、信長は秀吉の実力に脅威を抱き、いずれ必要がなくなった場合には、秀吉を抹殺するかもしれない。秀吉が漢の劉邦のことを知っていたかどうかは知らないが、功績を立て過ぎた功臣の末路がどうなるかを、想像できる人物であったと思う。秀吉は信長の心理を読める人物であったと思うのである。

だからこそ、秀吉は信長の援軍を頼む必要があったし、毛利との決戦を前にして「上様の手を借りたい」と懇願してくる秀吉のことを、信長は心憎からず思っていたことであろう。

決戦に勝利した後は「上様が出てきてくださったからこそ、あの大毛利を破ることができました。すべて上様の御威光のおかげ」と口上しておけば、自身の保身のためになるのである。というか、そうしておかないと自分の将来が危うい。

つまるところ、秀吉は、毛利との決戦のために信長の出御を待っている立場であり、勝手に和睦など結べないはずである。

せっかく信長が出御してきたのに「もうすでに和睦が成立しております」と秀吉が言ったならば、信長は「自分がくる前に勝手なことをした」と秀吉に対して激怒するに違いない。

数年前、中国地方の攻略のために、秀吉が宇喜多直家を調略したことに対して、信長は「勝手なことをした」といって激怒し、秀吉は叱責されている。

『国盗り物語』においても、「宇喜多は滅ぼす予定だ。秀吉め、なぜわしに相談せずに勝手な判断をしたのだ」と信長が激怒して、秀吉が平伏するシーンが描かれており、とても印象に残っている。

だから上月城の山中鹿之助へ援軍を送る際には、信長に相談し、信長に「見殺しにせよ」と言われて、秀吉は泣く泣く鹿之助を見殺しにしてしまっている。

同じような過ちを秀吉は犯さないはずである。つまり、信長の到着前に勝手に和睦交渉などできないはずなのである。

なぜ、信長の到着前に秀吉は毛利との和睦交渉を始めていたのか。これが子供の時からずっと抱いてきた疑問の1つである。

実は秀吉は光秀と連携しており、本能寺の変が発生することを知っていたから、というように短絡的には考えていない。しかし、そこには何らかの事情があったものと思っている。

しかし、その事情とは一体何だったのであろうか。いくつか考えられることはあるのだが、いずれも自分自身が納得できるようなものではない。

そんなこともあって、本能寺の変の前に、なぜ秀吉が単独で毛利との和睦交渉を進めていたのかが、昔からずっと謎に思っているのである。

光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかという問題よりも、こちらの方を私はずっと疑問に感じていた。

秀吉に何があったのか?
 

本能寺3

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月20日(月)05時23分51秒
返信・引用 編集済
  麒麟がくる、いよいよ第1話が放送された。まずまずの発進であったと思うが、主君の息子とため口をきいているのはちょっと疑問だった。あの息子と親しいということは、道三側ではなく、義龍側に立った描き方をするのかもしれないなあ。

齋藤義龍が父の道三を討つのは、自分が父から虐げられていたからだと思う。光秀が信長を討つのも似たような理由であるから、その伏線となるような描き方をするのかもしれないと思った。

さて、本能寺の変であるが、光秀の動機は1つだけのものではなく、積み重なった「この人にはもう付いていけない」という深刻な思いからであったのではないかと思う。

『国盗り物語』では、光秀が最初に虐げられるのは、延暦寺焼き討ちに反対する辺りからだったと記憶している。

人々の信仰の対象である比叡山を焼き討ちしようとする信長を光秀は必死に諫めるのであるが、「あんな破戒三昧の奴らは坊主などではない」「古き体質を打ち破ることこそこの信長の使命、そのためには神も死ね」などと言い、それでも反対する光秀は、信長に頭を掴まれて、地面に転がされてしまう。

まあ、実際に、転がされたかどうかはともかくとして、信長が尋常ではなく、自分の意見は通らないということは光秀も感じたことであろう。

浅井氏と近江で対峙している時期に、秀吉と2人で、唐崎の松を復興させようとして、浅井勢に攻撃されてしまい、信長に叱責されるというエピソードもあった。

それをとがめる信長の使者に対して、ただひたすらに謝り続ける秀吉とは対照的に、唐崎の松の由来をもっともらしく伝える光秀。それを聞いた信長は怒りを覚える。光秀の力量を買いながらも、自分に対して口答えをする態度が信長には許せない、という描き方であった。

足利義昭との間に立って苦しむ光秀。しかし、光秀は将軍義昭ではなく、信長の指示を優先する。その際も複雑な思いがあったであろう。

浅井・朝倉を滅ぼした後の正月の宴で、信長は家臣たちに「あの者たちから取り上げた盃で、酒を飲め」という。

その盃は、浅井長政・久政・朝倉義景の頭蓋骨の頭頂部を削って作った盃であった。

気味悪く感じながらも、それらの盃で酒を飲む他の家臣とは対照的に「かつての主君の盃で飲むことはできません」と拒む信長。信長は光秀の頭を押さえつけて、

「飲め、この盃がお前に何をしてくれた。お前を取り立ててやったのはこの俺だ」と盃を強制する。

もっともこの話は『国盗り物語』の創作である。『信長公記』には、正月の宴で、家臣たちが退出していった後、親しい者たちだけに、薄だみにした3人の髑髏を、酒の肴として披露したということになっている。もっとも、それでも不気味なことであるには違いないが。その場に実際に光秀がいたのかは分からない。

光秀の(さらには他の家臣たちも)心が震え上がったのは、佐久間信盛・林通勝の2人が追放となったということである。このことにより、ノルマを果たせない家臣は容赦なく追放されるということを家臣たちは、はっきりと認識することになる。

その時の家臣たちの会話で「昔謀反を起こしたということでは、林通勝も、柴田勝家も変わらない。柴田殿がおとがめなく、林殿だけが追放されたというのは、柴田殿は役に立っているが、林殿は役に立たなくなっているからだ」ということが話題になっていた。これは実際にそうであったろう。

また、「自分たちはいつまでも信長の過大なノルマでヒーヒー言わされて働かせられ続けた挙句、使えなくなったら、簡単に捨てられてしまうに違いない」と家臣たちは自覚するようになった。「おそらく生き残るのは信長の4男を後継ぎにしている秀吉だけではないのか」とも。

その秀吉は「自分は国内に所領を望まない。朝鮮をもらって明に攻め込む」と信長に言って、称賛されていた。信長に取り入ることの上手な秀吉と、真面目でうまく取り入ることのできない光秀とが対照的に描かれていた。

武田家滅亡後の恵林寺で、「我々も苦労した」という光秀に対して「お前が何の苦労をした!」と怒って、欄干に頭を打ち付ける信長。『国盗り物語』では、初めて光秀が「殺してやる」と殺意を抱いたのはこの時のことであったと描かれていた。

この信長の行為はあまりにも理不尽であり、光秀が根に持つのは当然のことである。理不尽な言いがかりをつけて叱咤する上司であるというのがよく描かれていた。

この事件はいくつかの記録に出てくることであるが、事実であったかどうかは分からない。事実であったとしたら、『国盗り物語』の通りに、光秀が殺意を抱いたとしても仕方のないところであろう。

舞台が恵林寺であったかどうかは分からないが、光秀が信長に打擲されたという話はルイスフロイスの記録にも出てきており、そういうことはあったのであろう。

そして、光秀が家康の饗応役を解かれて中国地方への出陣を命じられた後、ある使者が光秀のところを訪れる。その使者が告げた内容は、

「明智殿に出雲・石見の2か国を与える。しかしながら、現在の所領の丹波・近江の2か国は召し上げる」というものであった。これが、光秀の謀反を決定づけることになる。

「こんなことされたら謀反するしかないよなあ」と子供の私も思ったものだが、この話は『明智軍記』にしかなく、まったくの創作であると思う。いくら信長でもこれはあまりにも理不尽、やりすぎである。

しかし、いきなり中国への出陣を命じる信長に、光秀が「あの男の下にいる限り、背中に火を付けられて走り回らせられ続けるに違いない」と思ったことはありうることであると思う。信長の過剰なノルマに光秀は精神的に耐えられなくなっていたのである。

その後の連歌の会やおみくじでは、謀反を否定されるような状況が発生してくるが、光秀はもう「やるしかない」という気持ちになってしまっている。思い込み始めたら、自分を追い込むしかなくなっていくのである。

そして、今なら本能寺が手薄であり、絶好の機会であると判断する・・・・。

もっとあったのかもしれないが、そのように光秀が追い込まれていくさまが、延々と描かれていたので、「光秀に反乱を起こされても仕方がないなあ」と思ってしまったものである。

信長は信長で、光秀の能力を買っており、「あいつならやってくれるよ」などと気楽に濃姫に語ったりしているのだが、ノルマに苦しんでいる光秀の気持ちなどはまったく理解していないのであった。

そんなことで、たまたま手薄であった本能寺を光秀は襲撃してしまったのであった。

以上、大河ドラマ『国盗り物語』の内容を中心に光秀と信長の関係を見ていったが、もちろん、こうしたことがすべて事実であったかどうかは分からない。ただ、「使えない家臣を放逐した」といったことは事実であり、信長が他の大名とは違い、家臣に過大なノルマを与えて酷使していたことは間違いない。そして、信長はいくらパワハラをしても逆らうことのできない怖い上司だったはずである。

そうした信長の仕打ちに対して、耐えきれなくなってしまったことが、本能寺の変の究極的な原因であったと思う。

原因は1つ2つのものではなく、積み重なった経験値による「もう耐えられない」「信長を殺さない限り自分は生きていけない」とまで思い込むまでに至ったことによるものだったと思う。

突き詰めていってしまえば、本能寺の変の原因は、信長自身のあり方にあったということなのではないだろうか。

 

本能寺2

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月19日(日)06時40分31秒
返信・引用 編集済
  人が人を殺害する理由は、多くはシンプルなものである。

1つは、怨恨。恨みの内容はさまざまであるが、自分の上司である場合は、パワハラなどもありうることであると思う。従来から最も言われてきているものが怨恨説である。

2つ目は、営利的なもの。その人物を殺害して、何らかの利益を得たり、自分の立場を向上させたりといったところである。

ミステリー小説やドラマを見てみても、人が人を殺害する理由の多くは、この2つに収斂される。

光秀の場合も、そのような心理的要因があって、謀反を起こしたのだと思う。それをけしかけた黒幕がいたとしても、それはあくまでも副次的な要素に過ぎない。それに乗っかろうと思ってしまうほど、光秀は信長を殺害したいという思いになっていたからこその謀反である。

2つ目の営利的な説として古くから言われているものは主に2つある。1つは、戦国武将らしく、光秀も天下を取りたかったのではないかというもの、もう1つは、光秀がかねて申し継ぎを行ってきて、婚姻関係も結んでいた四国の長曾我部が討伐されることになって、立場がなくなってしまったというもの、この2つが主なものである。

しかし、私は営利的理由については、排除してよいものと思う。その理由は、営利的なものであれば、かなり計画的に行うと考えるからである。この謀反に計画性はどれだけあるか。想定できる未来についても計算するはずである。

現在の状況で自分が信長を殺してしまったならどうなるか。自分を倒した者が次の権力者となることは目に見えている。日本中のあらゆる武将が自分をめがけて殺到してくるであろう。そうなったら、光秀には勝ち目はなく、自分は次の天下人のための単なる礎になってしまう。

冷静に検討してみれば、そういう状況になることは想定できるのではないだろうか。

光秀は天下を取るどころか、他の誰かが天下を取ることに貢献するだけの結果になってしまう。こんな簡単な想定ができる状況なのに、「自分が天下を取るために謀反する」と考えられるであろうか。

 光秀は信長の下であそこまで立身した人物であり、先のことが見え計算もできる人物であったと思う。したがって上記のような計算は簡単にできていたであろう。戦国の武将であるのだから、彼も天下を取りたかったのだ、としても、それが単純に謀反に結び付くというのはあまりにも短絡的ではないだろうか。

ただし、今回の「麒麟がくる」では、おそらくこれが本能寺の変の目的として描かれることになると思う。

「麒麟がくる」のテーマは「戦乱の世に平和をもたらす人物を描く」ということであり、戦争を続けあらゆる敵対勢力を殲滅させようとする信長を殺害することによって、光秀が戦国の世に終止符をもたらす、といった結末になるのではないかと想像する。『国盗り物語』も、それに近いところがあった。光秀が戦国の世を平和に導いたというのはかなり苦しいようにも思われるのだが。

長曾我部の件はいかがであろうか。この件は、営利的な要素と怨恨的な要素の2つが絡んでいる。

営利的な部分を重視するならば、謀反の理由は、長曾我部を救い、自分の立場も守るため、ということになる。

しかし、この理由もやはり計算できる人間であるならば、到達しない目標であると思う。謀反の結果、自分が謀反人として討伐されることになってしまうのである。営利的な目標を持ちながら非営利な結果になってしまうであろうことは容易に計算できるはずである。

長曾我部との関連が問題になるとすれば、長曾我部との申し継ぎを反故にされてしまったことに対する怨恨ということで、むしろ怨恨説の要因の1つと考える方が可能性としては高いと思う。

基本的に本能寺の変はそれほど計画的なものではなく、かなり突発的に発生したものであると思う。

それは自分が信頼できる他の武将との連携がまったく取られていないということもあるし、変後に光秀が、細川藤孝に送った書状に「自分が謀反を起こした理由は、あなたの息子に天下を渡してやりたかったからだ」などと藁にも縋るような内容のことを書くこともなかったであろう。

本能寺の変はそれほど計画的なものではなかったと思う。信長が手薄な状態にあり、さらに自分が軍勢を率いてその近くにいるという状況が発生して初めて「可能である」と計算できたものであり、そういう意味で突発的要因が大きかったものと思う。だから事前に細川藤孝や筒井順慶、長曾我部などといった親しい武将との連携が行われていなかったのであろう。

こう考えていくと、結局のところ、従来から言われている怨恨説が最も有力なのではないかと思う。光秀は「もう謀反を起こすしかない」と思い詰めるほど、やむに已まれぬ状況に陥っていたのだと思う。

このように私が思ってしまうのは、やはり『国盗り物語』の影響が非常に大きい。私はこの大河ドラマによってはじめて歴史というものを知ったため、戦国時代に関することのすべては、そこで刷り込まれてしまったからである。

もう1つ、かつてパワハラ上司の下にいた時、自分はいつも「明智光秀はどのような心理状態であったのだろうか」と考えていた。「もし、自分に、手持ちの軍勢がいたら」とも。

それでは光秀が謀反を起こすに至る怨恨とは何だったのだろうか。

それは次に書いてみたい。

 

本能寺

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月18日(土)05時55分28秒
返信・引用 編集済
  本能寺には思い出がある。高校生の時の話である。

高校の修学旅行は奈良・京都であった。京都での最後の夜、自由行動できる時間があって、旅館の外をぶらぶらと一人で歩いたことがあった。

そこは京極通という繁華街であったのだが、特に目的もなく適当に散歩していた。

そして、ある小路をちょっと入ってみたら、そこに寺院があった。なんという寺院なのかと思って、門のところの文字を読んだら、そこに「本能寺」と書いてあった。

「ここが本能寺なのか!」と思い、周囲の喧騒が一瞬消えてしまったのを覚えている。

さて、その本能寺の変についてだが、確実な証拠が残っていないということもあって、その原因については諸説ある。

そのうち、近年に話題になっていたのは朝廷陰謀説であろう。それ以外にも堺の商人陰謀説、足利義昭陰謀説など、さまざまな陰謀説が取りざたされている。

しかし、そうした現状について、私は以前から疑問を感じていた。陰謀説はすべて、直接的な原因ではないと思う。

考えてみればすぐに分かることだが、朝廷にしても堺商人にしても、陰謀を持ちかけられてすぐにそれに乗ってしまうほど、人間は単純なものではない。

実際、足利義昭からは何度も書状を受け取っているようだが、光秀はまったくそれを相手にしていない。

光秀以外の家臣にとってもそうであったろうが、ある程度優位な立場にある人物に対しては、さまざまな働きかけが行われるというのが人の世の常である。

しかし、謀反などと言うのは通常では考えられないような大ごとである。通常の精神状態であれば、そんなものは相手にせず、一蹴するというのが普通であろう。

つまり光秀と信長との関係が普通のものであったとしたら、光秀がそんな陰謀に耳を貸すはずもないのである。

例えば、仮に朝廷の陰謀に乗ったのだとしても、「朝廷の陰謀があったから乗った」のではなく「もともと信長を排除したいという思いがあったからこそ、その名目付けに朝廷の陰謀に乗った」のだと思う。

つまり、この場合、朝廷の陰謀というのは、直接的な要因ではなく、副次的な要因であったということになる。

だから、朝廷の陰謀も、堺の商人の陰謀も、足利義昭の陰謀も、実際にあったのかもしれないが、それはあくまでも本質的な要因ではなく、謀反という大それたことを起こす根本的な原因は、あくまでも光秀の精神状態に求めるべきだと思う。

では、そうなってしまった光秀の精神状態とは何か。それはまた後で書いてみたいと思う。


実は「麒麟が来る」について、1つ不安に思っていることがある。

それは光秀を主人公であるがゆえに、本能寺の変も、主人公が正義の鉄槌を下すべく起こした正当な行為であるといったような描き方をするのではないかということである。

いくら主人公だからと言って、何でもかんでも善人のように描いてしまうのは嘘くさくなってしまう。

かつて大河ドラマの『徳川家康』では、家康をあまりにもいい人として描きすぎた故に大阪の陣を起こすことに矛盾が生じてしまった。そのため大坂の陣は家康の陰謀で起こったのではないことになってしまっていたのである。

 家康が大阪城が落城した後に「どうしてこのようなひどいことになってしまったのか。わしは誰も死なせたくなかったのに」と言って嘆くというありえないシーンが描かれていた。

「だったら、大坂の陣起こすなよ。自分が豊臣家を滅ぼしたかったがゆえに、言いがかりを吹っかけて合戦にしたんだろ」という話であり、それまで積み上げてきたドラマのリアリティが一挙に吹っ飛んでしまった。

だから、光秀を必要以上にヒューマニティ溢れる善人として描いてほしくもないのである。光秀はもっと泥臭い戦国の男であったと思う。
 

Re: 福地山城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月18日(土)05時43分14秒
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  > No.6487[元記事へ]

狸屋さんへのお返事です。

二ノ丸どころか、本丸も削られていましたか。確かに現在の本丸は、とても手狭で、近世城郭として使用したとは思われないほどですね。

城塁をよじ登ったのは、石垣のない急斜面で下から、あるいは削られた部分だったのかもしれません。

 

Re: 麒麟がくる

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月18日(土)05時39分35秒
返信・引用 編集済
  > No.6486[元記事へ]

ひづめさんへのお返事です。

『太閤記』の佐藤慶は、さすがに私もほとんど記憶がありません。『国盗り物語』の近藤正臣は、とにかく印象に残りました。高橋信長にいじめられているのが可哀そうで可哀そうで、「謀反を起こすのは当然じゃ」という気分になったものです。

明智光秀が朝倉氏に仕えていた時期があるというのは周知のことだと思いますが、医者説もあるのですか? 当時の医者というのは専門的な免許があるものでもなく、専門職として成り立っていたのかどうかも疑問です。光秀に多少の医学の心得があったとしても、別に不思議はないと思うのですが、それ=職業的医者と結びつけるのは、短絡的かな、と思います。

 

Re: 福地山城

 投稿者:狸屋  投稿日:2020年 1月17日(金)20時18分52秒
返信・引用
  > No.6481[元記事へ]

余湖さんへのお返事です。
実家に帰るおりに、良く工事の進行過程をみてました。所謂小天守の方が先に完成していました。二の丸だけではなく、本丸も天守の西側の半分ぐらいが削り取られてしまっています(坂をよじ登ったと書かれている方が本来の登城口側で、いまの入り口は搦め手です)。じつはよくよく探してみると二の丸の北側の崖部分とか、二の丸・本丸の北側にあった対面所の堀のあとが、地形として残っています。
以前は町の中に銭湯が残っていましたが、最近廃業されてしまったようですし、「田舎のデパート」と言うべきスーパーが2つ駅前にありましたが、いずれも閉店したようです。
 

Re: 麒麟がくる

 投稿者:ひづめ  投稿日:2020年 1月17日(金)10時35分28秒
返信・引用
  > No.6485[元記事へ]

余湖さん

> 今年の大河ドラマは、久しぶりに大河ドラマっぽい内容になりそうなので、かなり期待している。

 「西郷どん」、「直虎」、去年のも見なかったので、私にとっても「真田丸」以来久しぶりの大河です。
 光秀というと、「太閤記」の佐藤慶、「国盗り物語」の近藤正臣あたりまでしか俳優の印象がありません(20代以降TVなし時期が多かったので)。

> 明智光秀は、前半生がまったく分からない人物なので、創作がほとんどになってしまうと思うが、大河ドラマらしく描いてほしいものだ。

 越前朝倉での足跡が見つかり年明けから歴史番組が賑やかで、光秀医者説まで飛び出していますが、医者の定義にもよりますが、そこまで言えるのかなぁとその部分には疑問を感じます。おそらく本能寺の変の動機については、これまでと比べて怨恨説はかなり薄めて描かれるのではないかなと予想しています。ともかく、新しい光秀が描かれるのではないかと楽しみにしています。
 

麒麟がくる

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月17日(金)04時48分3秒
返信・引用
  今年の大河ドラマは、久しぶりに大河ドラマっぽい内容になりそうなので、かなり期待している。

「西郷どん」も「直虎」も、大河ドラマというよりはホームドラマに近い内容だった。そういうのはどちらかというと朝ドラでやってほしいと思っていた。

明智光秀は、前半生がまったく分からない人物なので、創作がほとんどになってしまうと思うが、大河ドラマらしく描いてほしいものだ。

明智光秀を主人公に描くドラマは初めて、のような触れ込みが書かれているのを見たが、私にとってみれば、明智光秀を主人公とした2つ目の大河ドラマである。

自分が初めて大河ドラマにはまったのは「国盗り物語」である。

「国盗り物語」の主人公は齋藤道三であったが、後半は彼の才能を受け継ぐ2人の弟子ということで、織田信長と明智光秀とが対比しながら描かれていた。

織田信長が登場してくる大河ドラマは数多くあるが、明智光秀との関係は、さらっと描かれるのが常である。

しかし、「国盗り物語」においては本能寺の変に至るまでの光秀の心理状態がかなり綿密に描かれていた。明智光秀が次第に追い詰められていく様子が手に取るようにわかったものである。こりゃ、反乱を起こすわけだよなあ、と子供心にも思ったものである。

それと同時に明智光秀にかなり共感を抱くことになった。明智光秀という人物を好きになったのである。

「国盗り物語」を見ていなかったら、明智光秀をそんなに好きになっていなかっただろうと思う。

だから、明智光秀を久しぶりに描く大河ドラマに期待している。

次回は本能寺の変について自分の思いを書いてみようと思う。
 

雲海

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月16日(木)04時12分49秒
返信・引用 編集済
  昔、福知山城を訪れた際に、とても印象に残っている出来事があった。それが雲海である。

福知山城を訪れる際に、亀岡から福知山まで、早朝に山陰本線に乗っていた。11月の早朝のことである。

電車の中から見る景色は一面の霧の中であった。重く垂れこめた霧である。それも、ただの霧ではなく、ところどころ雲の切れ目から太陽の光が差し込んでおり、雲の上が晴天らしいことは分かった。

雲の切れ目から一筋刺し子で来る日光は荘厳なもののように見えた。

このような気候を体験したのは、その時が初めてのことであった。このような盆地だと、こうした霧が里を覆ってしまうのだろうかと思った。

後に、この地域の山城を早朝に訪れた際に、山麓では霧がたちこめているというのに、山に登って行くと、途中から晴天になり、下の方に雲が溜まっているという光景を目にすることとなった。

すなわち、これが雲海である。

そんなわけで、雲海の中を電車で通る、という体験をしたのも、その時が初めてなのであった。

霧の中に一筋の日航が差し込んでくるあの景色を、今でもよく覚えている。
 

Re: 伊勢の城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月16日(木)04時06分27秒
返信・引用
  > No.6482[元記事へ]

備前守長政さんへのお返事です。

今年もよろしくお願いします。

三重の城は、まだあまり回っていないので、情報いただき、助かります。次に訪問する際には参考にしたいと思います。

長野氏城は、前回に訪問した際にターゲットとして考えていたのですが、時間が足りなくなって行けませんでした。

山城を訪れる際に、林道の状態がどうなっているのかがとても気になります。荒れた林道を車で通るのは心配で、今乗っている車は、そのためにあちこちこすってしまっています。

雲林院城も、次の訪問ではぜひ訪れてみたいと思います。

それではまたです。
 

伊勢の城

 投稿者:備前守長政  投稿日:2020年 1月15日(水)07時04分25秒
返信・引用
  少し遅いですが謹賀新年

今年の城廻は伊勢から始めました。

松阪城、津城は35年ぶりです。
いつものように家所城、宮山城、城山城では余湖図のお世話になりました。ありがとうございました。

伊勢上野城は雨に降られなかったので竹藪に眠る遺構も見ることが出来ました。ただ、倒竹が夥しく歩き回るには相当の手間がかかります。

長野氏城、細野城は余り堀切を使わない割とシンプルな縄張です。
長野氏城は城直下まで林道があります。ただ途中から砂利道。すれ違えるところが余りありません(終点には車を転回するスペースはあります)。ガードレールもほとんどない。何より気になったのが山側の法面がもろいこと。道路脇には人頭大の石がいくつも転がっていました。
成程、ちょくちょく通行止めになるはずです。ということでいつ石が落ちて通行不能になるか心配で、ビビりながら大急ぎで回ってきました。
ただ、主郭からの眺望は素晴らしいものがあります。

雲林院城は林光寺の南の墓地の脇から山上に道が通じて、楽に主郭まで行けます。ただ主郭は笹などに覆われていて状況が今一つわかりません。寧ろ南の支尾根の遺構が観察しやすくなっています。主郭下の鉄塔から南に作業用の階段等があり、鉄塔まで降りられれば簡単に行けます。
ただ、主郭から鉄塔のある平場までの道が消えていてしかも茨が繁茂してるので注意が必要です。

それではまた。今年も宜しくお願いします。
 

福地山城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月15日(水)05時01分36秒
返信・引用 編集済
  今年、大河ドラマで、明智光秀を描くということもあって、テレビで福知山城が紹介されているのを見た。

福知山城には、深い思い入れがある。それも30年以上前の話である。

昭和61年、それまで単層の櫓が一基しか残されていなかった福知山城に、天守が復興されるという記事を見た。11月にはオープンするという。

今のように、ネットで情報が簡単に得られる時代ではない。その記事が本当なのかどうかを確かめることもできなかった。それでも、昭和61年の11月、復興された天守を見るために、半信半疑で福地山城までやってきた。

駅から出て、城までちまちま歩いてみると、城の場所はすぐに分かった。入り口には工事している人たちがいた。

「福知山城の入口ってここですよね?」
「そうだよ」
「入ってみたいんですが」
「それはだめだよ」
「どうしてですか?」
「まだオープン前だから、一般の人は入れちゃいけないんだよ」
私は城の方を見上げた。天守の外観を何としてでも見たいのだが、ここからでは、上の方しか見えていない。
「福知山城の天守を見たくて、千葉県からわざわざ来たんですが」
「そうはいってもねえ」工事関係者は気の毒そうに言った。
「まだ工事中だから、何かあったら私たちの責任問題になってしまうんですよ」

この方たちの責任問題になってしまうとあっては、無理強いはできない。私は「分かりました」と言って引き揚げた。

しかし、福知山城の天守を見るためにわざわざ来たというのに、このまま引き上げることはできない。私は城の反対側に回り込んだ。

そして、そこから城塁をよじ登り始めた。近世城郭の城塁である。それこそ危険な登城であったが、天守を見たいという思いを断ち切ることはできなかった。

そうして、とうとう本丸内部に到達した。目の前には天守があった。

想像以上に風格のある天守であった。これを見たかったんだよなあ。

若いころはけっこう無茶をやったもので、今だったら、そこまではしないであろう。でも、あの時はどうしても天守の外観を見たかったのである。でなければ、わざわざ福知山まで来たことがまったくの無駄になってしまう。

天守台には墓石が多く用いられており、明智光秀が信心深い人だというのは嘘ではないかと思ったものである。

http://mizuki.my.coocan.jp/kyoto/hukutiyama.htm
 

あと40城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)21時04分36秒
返信・引用
  余湖図7000城まで、あと40城だ!  

大森氏館

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)21時02分2秒
返信・引用 編集済
  これも入間市のお城。

徳川家の旗本大森氏の陣屋があったところであるという。

大森氏は200石、後に加増されて500石になったというが、この石高では旗本ではなく御家人であろう。

北西側に墓所があり、その周囲に土塁が残されている。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/irumasi01.htm#oomori

さて、入間市のお城を訪れたのは初めてであったのだが、入間市は子供の頃にずいぶんと憧れた場所であった。

子供の頃「8時だよ!全員集合」という番組をやっていて、毎週楽しみに見ていたものなのだが、その番組の初めのテロップに「入間市市民会館より中継」と出ていた。毎週それを見ていて、「入間市の人は会場へ行って、この番組を直接見ることができるのかあ」と思ってあこがれていたものである。

入間の子供たちは特権階級のように思っていたのであった。

ちなみに、当時は「入間市」という市の存在を知らず、字面を見て「人間市とは、変わった名前の市があるもんだなあ」と勘違いしていたりした。
 

宮寺氏館!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時57分10秒
返信・引用 編集済
  埼玉県入間市のお城。

西勝院が館跡で、城址碑や標柱も立てられている。

南東側の土塁が残されており、これがなかなか見事である。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/irumasi01.htm
 

泉ヶ城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時55分53秒
返信・引用
  これも飯能市のお城。

遺構はほとんど残っていないが、かつての主郭跡に建てられている長屋門がやたらと目立っている。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/hannousi02.htm#izumi
 

中山家範館

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時53分33秒
返信・引用
  埼玉県飯能市のお城。

住宅街の只中にありながら、かろうじて堀がわずかに残されている。

案内板や城址碑もあり、地元ではけっこう認識されているようだ。しかし、場所が分かりにくい。

八王子にある中山勘解由屋敷の中山氏と同族であろう。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/hannousi02.htm#nakayama
 

神田屋敷

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時51分35秒
返信・引用
  これも日高市のお城。

遺構らしきものといえば、土塁1本だけであり、なんだかよく分からない。

しかし、近くに模擬天守風のお宅があり、私にとってこれは必見の物件!

しかも外観5層で内部3階という、非常に珍しい物件である。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/hidakasi01.htm#kanda
 

栗坪陣屋

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時49分26秒
返信・引用 編集済
  これも日高市のお城。

高麗本郷陣屋が火災で焼失した後に、大久保長安が築いた陣屋だというが、遺構らしきものはほとんど見られない。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/hidakasi01.htm#kuritubo
 

岡城

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時48分7秒
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  これも日高市のお城。

御嶽神社が城址ということらしいのだが、目立った遺構はなく、城の構造もよく分からない。

しかし、この神社、非常に訪れにくい。

本当に城館なのであろうか。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/hidakasi01.htm#oka
 

高麗本郷陣屋・新井屋敷

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時46分37秒
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  埼玉県日高市のお城。

観光名所の巾着田はよく知られているが、そのすぐ北側に高麗本郷陣屋があることを知っている人はいない。

しかし、ここは大久保長安の陣屋であったという。

そのすぐ南側にある新井家屋敷は、完全石垣造りであり、屋敷というよりは城郭である。こんな見事な屋敷は見たことがない。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/hidakasi01.htm
 

大類氏館

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時44分44秒
返信・引用
  埼玉県毛呂山町のお城。

武蔵児玉党の一族大類氏の居館があったところである。

しかし、遺構はあまりよく分からない。畑の溝が堀跡なのであろうか。

ちなみに大類氏の居城大類城は群馬県の高崎市にもある。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/moroyamamati.htm#oorui
 

奈良梨陣屋!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時42分31秒
返信・引用 編集済
  これも小川町のお城。

諏訪氏の陣屋である。

諏訪氏といえば、武田信玄によって没落させられた後、有為転変を経て、最終的に諏訪領に復活するという不死鳥のような一族であった。

その諏訪氏が、ほんの2年ほど居城としていたのが、この奈良梨陣屋である。

なんてことのない陣屋跡なのだが、そう考えてみると、含蓄深いよなあ・・・。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/ogawasai.htm#naranasi
 

武田信俊館

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時39分13秒
返信・引用 編集済
  埼玉県小川町のお城。

その名称の通り、武田氏の一族であった武田信俊の館跡である。

しかし、武田信俊が、武田本家とどのような関係であったのかよく分からない。武田氏滅亡の後に徳川家康に仕えていることからすると、武田本家との血筋はそれほど濃くはなかったのではないだろうか。

武田家歴代の墓所の宝篋印塔はなかなか見事である。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/ogawasai02.htm#takeda
 

大河原氏館!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時36分46秒
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  これも東秩父村のお城。

当地の豪族であった大河原氏の居館の跡である。

周囲を石垣で囲み、由緒のありそうな建造物が立ち並ぶ古刹である。

なおここには上杉朝興や北条氏康の文書が残され、墓所には北条家家臣上田氏の墓所もある。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/higasititibumura01.htm#oogawara
 

安戸城!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時34分5秒
返信・引用
  埼玉県東秩父村のお城。

腰越城の近くにあり、腰越城の支城であったと考えられる。

城そのものは素朴なものだが、登山道が整備されており、ハイキング気分で楽しく登れる。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/higasititibumura01.htm
 

高谷砦!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時32分34秒
返信・引用
  埼玉県小川町のお城。

山城とは言っても比高40mほどであり、道もあってすぐに登れる。

「太田道灌状」から、文明年間に太田道灌が関与して築かれた陣城であったと想定される砦である。

急造されてはいるが、部分的には技巧的で、道灌の城が、旧状のまま残されている貴重な遺構である。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/ogawasai02.htm
 

月輪館!

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月13日(月)20時30分26秒
返信・引用
  埼玉県滑川町のお城。

「館」といっているが、「大堀」の地名が残す通り、館ではなく堀遺構というべきものである。

何らかの戦時に築かれた陣城あるいは陣堀のようなものだったのであろう。

http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/namekawamati.htm#tukinowa
 

7000城目は?

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月11日(土)05時24分39秒
返信・引用 編集済
  記念すべき7000城目にふさわしいお城って、どこかにありますかね?

特におすすめ情報がなかったら、昔描きかけて挫折した、あれにしようかな・・・。
 

Re: キャプテンウルトラ

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月10日(金)03時38分18秒
返信・引用 編集済
  > No.6462[元記事へ]

ひづめさんへのお返事です。

>ウルトラQ、ウルトラマンと来て、キャプテンウルトラは衝撃的でした。

リアルな特撮もの、巨大ヒーローものと来て、宇宙を舞台としたヒーローものでしたからね。びっくりしました。日本初の宇宙ドラマでした。

キャプテンウルトラは、あの時代としては、相当凝った設定で、斬新な特撮ドラマであったと思いますが、やはり何としても、時代を先取りしすぎていたのではないかと思っています。

とはいっても、スターウォーズが製作されるよりも10年前に、このようなドラマが製作されていたというのは、ある意味先見の明であったのではないでしょうか。

先の記事にも書きましたが、シュピーゲル号のデザインは、当時の宇宙船としては考えられないくらい斬新であったと思います。(その当時は変なデザインとしか思っていませんでしたが)

しかし、おっしゃるように、特撮がちゃちだったのは確かです。低予算で一生懸命にやっていたのでしょうが、宇宙が舞台なのにすべてスタジオセットで撮影していましたから、どうにもならなかったのかもしれません。

ストーリー的には、本放送で見ていた時には、とにかく怖かったです。大人になって見直した際には、それなりに考えたストーリーだったのではないかとも思いましたが、やはり巨大ヒーローに変身しないという設定のためか、あまり人気も出ず、再放送される機会も少なかったのだと感じています。

余談になりますが、主人公を演じた中田博久は、その後のドラマでは、ギャングとか悪代官とか、とにかく悪役ばかりを演じていましたね。同じTBSで放送されたキーハンターの一場面で、中田博久演じるギャングが、テレビでキャプテンウルトラを見ているシーンがあったのを今でもよく覚えています。

それにしても、最終回のお花畑は今見ても謎です。あれはいったい何を言いたかったんだろか。

それとキケロ星人のジョーは途中降板してほしくなかったです。
 

Re: キャプテンウルトラ

 投稿者:ひづめ  投稿日:2020年 1月 9日(木)12時24分31秒
返信・引用
  > No.6461[元記事へ]

余湖さん

ウルトラQ、ウルトラマンと来て、キャプテンウルトラは衝撃的でした。
怪獣の着ぐるみや舞台や特撮がちゃっちかった記憶があります。

余湖さんの様に詳細を覚えてはいませんが、子どもの自分には理解できなかった何か深いメッセージを持った作品だったのかもしれません。
 

キャプテンウルトラ

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 8日(水)03時59分40秒
返信・引用 編集済
  ウルトラマンの後番組がウルトラセブンだと思っている人は多い。

しかし、実際にはその間にもう1つのウルトラシリーズが放送されていた。それがキャプテンウルトラである。

といっても、キャプテンウルトラのことを知っている人は少ない。主人公が生身の人間であり、変身も巨大化もしないといったところが印象的でなくなっている要因の1つであろう。

後はこの作品だけが円谷プロではなく、東映によって製作されたので、疎外されているといった要因もあるかもしれない。

キャプテンウルトラ、あの当時としては実に先進的なドラマであった。宇宙が舞台になっていることや、キャプテンフューチャーをオマージュとした、ハックとジョーのコンビ。愛機シュピーゲル号のあまりにも斬新なデザインなど、いまだかつてない設定のドラマであった。

私はこのドラマにはさまざまなトラウマがある。今でも心に残っているのは、そのトラウマ故であるかもしれない。

まずバンデル星人がとても怖かった。見た目が怖いうえにうじゃうじゃと現れてきて、思わず目をそむけたくなってしまった。幼い子供の目には非常に恐ろしい存在として映っていた。

中盤でバンデル星人は壊滅してしまうのだが、その後のストーリーでも、怖くて怖くて親の背中に隠れながら見ていた怪獣がいくつもある。

最も怖かったのはメタリノーム。もともと善良なロボットだったのに、流星群の放射能を受けて凶悪ロボットに変貌した上にどこまでも追いかけてくる。等身大で迫ってくる怪獣というのが、巨大な怪獣よりも怖かったような気がする。

それと同じくらいに怖かったのがキュドラー。こちらは、壁を通り抜けてどこからともなく人間を襲ってきて、血を吸ってしまう。見えないうえに、いつの間にか背中に迫っているという敵というのも怖かった。

そして、どうしても納得いかなかったのが、最終回である。最終回で主人公たちは宇宙の果てを探索すべく旅に出る。そしてとうとう宇宙の果てに到着する。

宇宙の果ては一面のお花畑であった。宇宙の果てがお花畑・・・・。そこで主人公たちは「自分たちは新しい世界のアダムとイブになったのだ」と語り合う。

そのまま、みんなでお花畑を笑いながら走り回って終わるのである。

大人になって改めて見た時には、これって要するに「死を暗示したラスト」なのかなと思ったものである。

でも前期のOPはとても好きだった。
https://www.youtube.com/watch?v=8i1Kjx17lpA

ちなみにキケロ星人のジョーを演じていたのは、今や大俳優となった小林念侍である。
https://www.youtube.com/watch?v=eJObUse_EOc



 

サンダーマスク

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 7日(火)10時40分31秒
返信・引用 編集済
  特撮ものの話をしていたら懐かしくなったので、もう少しだけ続けてみよう。

サンダーマスクは東洋エージェンシーというめずらしいプロダクションが製作したものである。

この当時、怪獣ブームと言われていたのだが、「怪獣」という言葉が飽きられつつあったのだろうか、怪獣以外の名称が使われるケースが増えていた。

ウルトラマンAの「超獣」、マジンガーZの「機械獣」、デビルマンの「妖獣」などである。

サンダーマスクに出てくる怪獣は「魔獣」と呼ばれていた。だからサンダーマスクは魔獣と戦うヒーローであった。

怪獣と魔獣の違いは・・・デザインがちょっと違っているとのことであるが、初期のタイヤーマなどはともかくとして、中盤以降は普通の怪獣だったと思う。

私にとって思い出深いのは、この作品によってE=MC×2による浦島効果を初めて知ったということである。

宇宙のどこかの星にいたサンダーマスクは、地球に宇宙の魔王デガンダの魔の手が迫っているということを知って、遥か彼方の地球にやってきた。

ところが光速を超えるスピードで来たために、時間をさかのぼってしまい1万年前の地球に着いてしまったのである。早すぎる・・・・。そのためサンダーマスクは冬眠状態となり、1万年たつのを待っていた。なんというか、気が長い・・・・。

ネットで「サンダーマスク発狂」の回を見ることができるのだが、この回はタイトルからしてもう現在では放送できないだろうなあ。

https://www.youtube.com/watch?v=8bg3ig5ZOnU&t=773s
 

Re: 明けましておめでとうございます。

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 6日(月)05時19分54秒
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  > No.6458[元記事へ]

吉之助(鈴木)さんへのお返事です。

明けましておめでとうございます。ご無沙汰しています。

二条城、西方城ともにいいお城ですよね。お城はじめとしてはなかなか充実したものだったのではないかと思います。

いずれの城も、訪れたのはずいぶん昔のことになってしまうのですが、ヤブがものすごい状態でした。

今では、けっこうきれいに整備されているという話も聞いているので、また行ってみたいものだと思いました。

それではまたです。



 

明けましておめでとうございます。

 投稿者:吉之助(鈴木)  投稿日:2020年 1月 5日(日)19時16分8秒
返信・引用
  新年、明けましておめでとうございます。
毎度、余湖さんのHPを便利に活用させていただいております。

本年最初の城巡りで栃木の「二条城」に行ってきました。
と言っても、西方城に行くつもりが入り口の「長徳寺」で登り口を間違えて二条城に行ってしまったと言うのが本当なんですが(苦笑)
今回初めて「二条城」訪れたのですが、地元の方々が整備してくれたおかげと冬ということもあり、主郭の土塁が明確になり、石積み跡も明確に判る状態になっています。
まだ、主郭以外では矢竹群生部分もありますがそれでも鋭く高い切岸を堪能することができました。

今年初めての城巡りで登城口を間違えて別の城へ行ってしまうという大失態を演じてしまいなんとも恥ずかしい限りですが、今年も余湖さんのHPを参考にさせていただき城巡りをしていきたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします<(_ _)>
 

実相寺監督作品

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 5日(日)04時50分5秒
返信・引用 編集済
  シルバー仮面のところで、実相寺昭雄監督のことに触れたので、ここで少し解説をしておきたい。

実相寺氏は、ウルトラシリーズの監督として知る人ぞ知る人物である。

ウルトラシリーズの中で、さまざまな問題作を製作しており、ウルトラマンでは、実相寺作品だけを集めた映画が公開されたこともあるほどである。

ウルトラマンで最も有名なのはジャミラを描いた「故郷は地球」である。テーマは「科学が人間を簡単に犠牲にしてよいのか」ということであり、重いテーマもさることながら、実相寺氏らしい光と影とを使い分けた映像が心に残る作品であった。

ウルトラセブンの最大の傑作と言える「狙われた町」も実相寺作品である。

ストーリー展開や映像の撮影の仕方など、非常によくできた作品であった。

特に最後の「人間同士の信頼感に目を付けるとは実に恐ろしい宇宙人です。でも、ご安心ください。これは遠い未来のお話。我々人類は、今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信頼し合ってはいませんから」というナレーションによって、現代の寓話となっていく演出は秀逸であったと思う。

ウルトラシリーズの作品は、2話を同時に撮影していくのだが、「狙われた街」と同時撮影されていたのが、後に放送禁止作品となってしまった第12話「遊星より愛をこめて」である。

この作品にはとても思い入れがある。ウルトラセブンは本当に幼いころに見ていた作品だったのだが、子供なりによく内容を覚えていた。

特に「遊星より愛をこめて」は、スペル星人の姿も含めて、印象に残っていたのである。(自分の記憶ではペペル星人だったのだが)

ところが、後に再放送を見るたびに、なぜかスペル星人の出てくる話が放送されないことに気が付いた。「なんでペペル星人の話をやらなかったのだろう?」

親に頼んで買ったもらった「怪獣ウルトラ図鑑」にもスペル星人が掲載されていなかった。実はこの図巻、昭和43年に雑誌「ぼくら」の付録に付いていた怪獣図鑑を焼き直したものだったのである。基になった図鑑を自分は持っていて、そこにはスペル星人が載っていたことを記憶していた。(ただし、この付録は母親に捨てられてしまったため、その当時は所持していなかったが)「なぜペペル星人がカットされているのだろう?」と疑問に思った。

今のようにインターネットで情報を得られる時代ではなかったから、いろんな本などを探し求めて、それについて一生懸命に知ろうと努めたものである。

そうして何年も過ぎた後に、12話が欠番となっていることを知った。そして、あちこちで情報を集めて、何故それが欠番にされてしまったのかという事実に、ようやくたどり着いたのである。

そこにたどり着くまでには10年かかったものである。今だったらネットで探せばすぐに検索できるし、映像そのものも見ることができる。

ところが、インターネットの存在しない当時、私が12話の映像を手に入れるためには、さまざまな紆余曲折があったものである。ちなみに私に12話の映像を送ってくれたのは、あの宮崎勤であった。(自分の人生の中で、後に死刑囚となるような人物とかかわりを持ったのは、この1回だけである)

12話は、「狙われた街」と同様、人類にとってありきたりのものを小道具として用いている。「狙われた街」ではタバコ、12話では腕時計である。そうした小道具を用いたミステリー仕立てになっていた。

そして、ラスト。「私忘れない、決して。地球人も宇宙人も同じように信じあえる日が来るまで」とつぶやく早苗に対して、モロボシダンの心の声は、「そう、そんな日はもう遠くない。だってM78星雲人の僕が、君たちとこうして一緒に戦っているじゃないか」と語りかけていく。その姿はシルエットとなっている。

この最後のセリフは、「狙われた街」の「我々人類はまだ宇宙人に狙われるほどお互いを信頼し合っていない」と対になっているのである。

そして、今思うと、最終回のアンヌとの別れのシーンでのセリフ、「人間だろうと、宇宙人だろうと、ダンはダンに変わりないじゃないの」につながっていた!

この2作品以外にも第43話「第四惑星の悪夢」、第44話「円盤が来た」も実相寺作品であるが、いずれも名作であったと思う。

そんなわけで、シルバー仮面で実相寺氏作品を久しぶりに見られたのはとてもうれしかったのである。

ところで、この記事を書いていて、学生時代にスペル星人の姿を残しておこうと思って、自分で模型を作ったことを思い出した。探したらまだあったので紹介しておきます。

全身ケロイドの独特のデザインで、子供向け番組に出てくる宇宙人としては違和感があるデザインである。欠番になってしまったのには、このデザインも関係していると思う。
 

シルバー仮面

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 5日(日)04時15分19秒
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  アイアンキングの前番組がこれであった。アイアンキングのところでも述べているが、宣弘社のヒーローはデザインが秀逸で、シルバー仮面も見た目はとってもカッコイイ。

役者も主演の柴俊夫(変身後も本人)、篠田三郎(ウルトラマンタロウになる前)、夏純子など、なかなかいい役者がそろっていた。

ストーリーは10話までの等身大編と11話からのジャイアント編に分けられる。

仮面ライダーが流行っていたこともあって、当初は等身大のヒーローとして始まったのだが、視聴率で苦戦したために、途中から巨大化できるようになったのである。これは視聴者の需要に応える結果となった。

ただ、ストーリー的に見ると、等身大編の方がよくできており面白かったと思う。

特に第1話と第2話とは、あの実相寺昭雄監督作品となっており、特に第2話は実相寺作品らしい仕上がりとなっている。タイトルも「地球人は宇宙の敵」であり、問題作そのものである。

第1話のタイトルは「ふるさとは地球」 これも、ウルトラマンの実相寺作品、あのジャミラの出てくる問題作「故郷は地球」に通じるものである。

タイトルバックは毎週変わっていたのだが、一番すごいのは第9話のタイトルバックである。

こんな暗いOPがあるだろうか。視聴者はいきなり、誰のだか分からない葬列のシーンを延々と見続けることになるのである。心が冷えてしまう。

https://www.youtube.com/watch?v=n_HVpfjKf0U

このOPの直後に主人公の春日兄弟がマシンガンを持って現れ、葬列の人々を全員ハチの巣にしてしまうという、ショッキングな内容であった。鬱ドラマそのものである。

第9話は戦闘シーンでも問題となった。墓地での戦いで、シルバー仮面が、卒塔婆を引っこ抜いて、ドミノ星人をめった打ちにするのである。最も罰当たりなヒーローと呼ばれる所以である。敵の宇宙人がやるならともかく、ヒーローがこれをやっちゃいかんよなあ。

https://www.youtube.com/watch?v=1gjeKTXjR88

それにしても、子供心に見ていて、首をかしげることもあった。

あれだけ探し求めていても光子力エンジンの秘密が分からなかったのに、第10話でいきなり光子力ロケットが完成した状態で出てきたこと。今までやってきたことは何だったのかと思った。

また「光子力ロケットがあれば宇宙制服すら可能だ」と散々あおってきたわりには、第11話でいきなり宇宙人に光子力ロケットが破壊されてしまう。たいしたもんじゃなかった。

そして光子力エネルギーを浴びただけで、シルバー仮面が巨大化できるようになったうえに、身体のあちこちから武器を出せるようになったことなどなど。とても納得できるようなものではなかった。

子供をなめるなよ、と思ったものである。

それでもシルバー仮面は好きだったなあ。
 

志摩みずえ3

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 4日(土)18時11分30秒
返信・引用 編集済
  さらに続き。

1枚目は、結局、不知火一族に撃たれて倒れ込むみずえちゃん。こんな可憐な子を、あっさり死なせてしまうとは、ひどすぎる!

2枚目は、みずえちゃんの遺体を抱きしめる弦太郎。

3枚目は、この回のタイトルにもなっている「死者へのくちづけ」である。思えば、タイトルが結末をそのままばらしていた。繰り返すが、子供向け番組ですよ。

みずえちゃんの犠牲もあって、不知火一族はこの回で弦太郎に滅ぼされてしまうのだが、そのとたんに、次の敵である独立幻野党が姿を現すのであった。

平和な日本の社会に革命を起こし、家族も恋人も犠牲にするというとんでもない集団なのであった。

ちなみに、こんなに可憐だったみずえちゃんは、数年後の「傷だらけの天使」第9話では、悪女になりヌードシーンを演じていたのであった。ショック!
 

志摩みずえ2

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 4日(土)18時06分28秒
返信・引用 編集済
  下の投稿の続き。

1枚目は、いきなりみずえちゃんを押し倒す弦太郎。いきなり何するんじゃあ。

2枚目は、みずえちゃんを抱きしめて「俺は明日死ぬかもしれない男さ」とささやく弦太郎。ニヒルすぎる・・・。

3枚目は、結局、弦太郎を捕らえるための人質にされてしまったみずえちゃん。これを見て弦太郎が言うセリフ。「敵につかまりやがって。馬鹿な女だ」

弦太郎は常に冷たい男であった。
 

志摩みずえ

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 4日(土)18時02分58秒
返信・引用 編集済
  アイアンキングの第10話「死者へのくちづけ」でゲストの志摩みずえのことを書いたら懐かしくなって、じっくりと見返してしまった。

アイアンキングでは毎週女性ゲストが出演していたのだが、この回の志摩みずえが、一番可憐で心に残っているのである。

写真をいくつか掲載してみよう。

1枚目は、出会ってすぐにみずえちゃんとキスをする弦太郎。子供番組ですよ!

2枚目は、さっそく自宅に弦太郎を泊めて、すっかり好きになってしまったみずえちゃん。

3枚目は、みずえちゃんの背後にいきなり迫ってくる弦太郎。
 

アイアンキング

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 4日(土)04時59分20秒
返信・引用 編集済
  円谷プロ以外の特撮もので、最高の傑作は?と言われたら、私はアイアンキングを挙げる。

何しろアイアンキングには、他の特撮にはない独特の展開が見られるし、今見てもけっこう面白いのである。

アイアンキングについて、一般によく言われることは「アイアンキングが弱すぎる」「人間の方が主人公」といった指摘だと思う。それはまったくその通りである。

普通の特撮ヒーローものでは、人間が倒すことのできない敵を、巨大ヒーローが倒す、という展開が定番である。というか、例外はまずない。唯一の例外がアイアンキングである。

毎回の物語の終盤にアイアンキングは登場してくるが、敵を倒すことはできず、敵を倒すのは常に静弦太郎(石橋正次)なのである。

アイアンキングのエネルギーは水であり、その活動限界は1分間だけである。これでは敵を倒すことができないのも当然であろう。

アイアンキングが初めて敵を倒したのは、確か20話辺りになってのことで、「いったいどうなっちゃったの?」と思ったものである。全編を通じてもアイアンキングが敵を倒したのは数回だけだったと思う。

アイアンキングの主人公はあくまでも静弦太郎なのである。

設定はちょっとやばい。最初の敵不知火一族は、現在の日本人を大和政権と呼ぶ、本来の先住日本人という設定である。

次の敵の独立幻野党も、現日本人をヤマト政権と呼び、革命のためには人の命の犠牲をなんとも思わない過激集団となっている。

しかし、人間ドラマの部分がなんとも面白い。静弦太郎と霧島五郎(浜田光夫)のコンビの掛け合いがとても面白いし、静弦太郎のクールな性格設定も(たとえば、相手が女でも平気でぶんなぐる)当時はとても斬新であった。というか、現在ではとうてい設定できないであろう。

毎回の女性ゲストも素敵な人が多かった。特に志摩みずえは可愛かった。典型的なストーリー展開は、
静弦太郎と女性が出会う → 女性は最初は静弦太郎に反発するが、やがて静弦太郎に惚れてしまう(これが死亡フラグ) → 最後は女性が敵に殺されてしまう といった展開。

もっともこれは中盤以降の話であり、不知火一族編では、静弦太郎と霧島五郎とゆき子の3人の旅が描かれている。(もちろんゆき子も最後は殺されてしまう)

静弦太郎はとても非情な人物として描かれている。
1人と100人のどちらを犠牲にするかといったような場面では、迷うことなく1人を見捨てる。

目の前で助けを求めている人がいても、敵を攻撃して被害を拡大させないことを優先し、助けを求めている人を見捨てる。

しかし、それはそれで当然のような気がする。通常のヒーローだったら、1人の犠牲にもためらって100人をも危険な目にあわせたり、1人を助けるために被害を拡大させてしまったりするのが当たり前である。それは子供心に、どうなのかなって思っていた。静弦太郎の行動はとにかく合理的なのである。

しかし、何話だか忘れたが、シスターに無理やりキスしてしまったのは、今だったらセクハラとして非難されるだろうなあ。

とにかく静弦太郎を描くのがアイアンキングの主眼であり、彼をヒーローとしたドラマであったのだが、その独特の展開が、心に残る作品であったと言えるだろう。

もう1つ、アイアンキングは、デザインが秀逸で、かっこよかった。宣弘社の特撮は、前番組のシルバー仮面も含めて、デザインがとてもかっこいいと思う。

やはりヒーローはかっこよくなきゃね。

静弦太郎が馬に乗って走って行くED「一人旅」がとても好きだった。第6話のラスト部分+ED
https://www.youtube.com/watch?v=dRRr8s8POZQ

OPはこちら。懐かしいなあ。
https://www.youtube.com/watch?v=2ftVx32nUzg

第10話の志摩みずえ。弦太郎に関わったために殺されてしまう・・・・。
 

Re: 明けましておめでとうございます

 投稿者:余湖  投稿日:2020年 1月 4日(土)04時37分59秒
返信・引用 編集済
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みよさんさんへのお返事です。

今年もよろしくお願いします。

今年は7000城は間違いなく達成する年になるでしょう。記念すべき7000城をどこにしたらよいのか、今、考えているところです。

山陰地方も行ければよいのですが、よほど時間がない限り難しいでしょう。

7000城は間違いなく達成すると思いますが、8000城はもはや難しいと思います。何しろ描けるような城が、近隣地区にはなくなってしまっていますので、かなり遠征をしなければ、新たに描くことは難しい状態です。

精神的・体力的にも、限界に近づいてきているのではと思っています。

それではまたです。
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:みよさん  投稿日:2020年 1月 4日(土)01時24分57秒
返信・引用
  昨年もお世話になり、ありがとうございました。
本年も、よろしくお願いいたします。

この正月、なんとかWindowsの更新を行いました。PCの問題から、画面等限界があるようですが、こちらのHPを拝見することはかないました。

いよいよ7000城が現実となりそうですね。どこになさるのでしょうか。
私もどこか紹介できるとよいのですが、地元の山陰地方でさえ、中国地方は行きにくいとおっしゃりながら、すでに私より余湖さんの方がたくさん回られておられるような状態で(;^_^A
皆さんがすてきなお城を紹介してくださるのを楽しみにしております。

 

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